モヤモヤしているのに、うまく言葉にできない…そんな経験はありませんか? そんなときは、「哲学」の考え方が味方になってくれるかもしれません。多様な選択肢に気づくヒントとなる「哲学」について、哲学対話の第一人者である河野哲也さんに伺いました。日々のコミュニケーションで生まれるモヤモヤを解消するための具体的な考え方も必読です!
- “哲学する”ってどういうこと?モヤモヤを解決するには考え方を変えてみる
- 今日から実践!お悩み別「哲学」で固定観念から自由になる
- 「ネガティヴ・ケイパビリティ」とは?"モヤモヤを解決しない力"が必要な理由【哲学者・谷川嘉浩さんインタビュー Part1】
- モヤモヤをそのまま心の棚に置いておき、余裕があるときに取り出して考える
- 「自分自身を単純化しないこと」が、「ネガティヴ・ケイパビリティ」につながる
- これまでにない手札を増やせるのが、「ネガティヴ・ケイパビリティ」の創造性
- スマホによる「常時接続」がもたらす変化と「ネガティヴ・ケイパビリティ」の新しい可能性【哲学者・谷川嘉浩さんインタビュー Part2】
- SNSはジャンクなストレスコーピング。本質的な解決には結びつかない
- <寂しさ>とは、他者がいるのにつながれない状態に感じるもの。<孤独>とは別物です
- <孤独>の時間が圧倒的に足りない、常時接続の時代
- スマホ時代を経たからこその「ネガティヴ・ケイパビリティ」
- 東洋哲学って何? 悩みに効くって本当? 東大卒の元芸人・作家、しんめいPさんの解説が“自分探し”に効く!【インタビュー前編】
- 東洋哲学ってそもそも何?
- なぜ、人生の悩みに東洋哲学が効く?
- 「“自分らしさ”はフィクションにすぎない」ストレス社会でラクに生きるための東洋哲学をしんめいPさんが解説!【インタビュー後編】
- みんな“言葉の魔法”にかけられている!?
- “自分らしさ”もしょせんはフィクションと思えばラクになる
- 人生の選択に悩んだら、思考を緩めてみる
“哲学する”ってどういうこと?モヤモヤを解決するには考え方を変えてみる
立教大学文学部教育学科教授
博士(哲学)。NPO法人こども哲学おとな哲学アーダコーダ副代表理事。専門は現代哲学、倫理学、教育哲学。幼稚園・保育園児から高校生を対象に、対話によって思考とコミュニケーション力を養う「こども哲学」を全国の教育機関や図書館で実践している。また、鎌倉などで大人向けの「哲学対話」や「哲学カフェ」も開催。『哲学のメガネで世界を見ると』(ポプラ社)など著書多数。
哲学には決まった問題や思想があるわけではなくて、生きていく中での根源的な価値や生き方にかかわることについて考える行為です。それは、自分でも気づかないうちに吸収し、身につけてしまっている社会の常識や周囲の人からの影響、思い込みなどを剥がして、自由になる過程のこと。
「モヤモヤしている」というのは、自分の考えが分からずにいる状態ですよね。それは闇の中にいるのと同じなので、自分を照らしてくれる鏡のような存在が必要です。
また、自分が感じていることに対していくつかの問いかけをしてみるといいと思います。難しく考えたり、たくさん問いかけたりする必要はありません。「Why(なぜ)」や「What(なにを)」、「How(どんなふうに)」と「For example(例えば)」ぐらいで十分です。いくつかの問いについて考えてみると、多くのものは「社会の常識や思い込みにとらわれていたな」と感じるはずだし、いろいろな選択肢や方法があると気づけるんですね。そのプロセスが自分を解放することにつながります。
自分から出てくる考えというのは、コップの水でいうと表面に浮いている気泡の部分。でも、そもそも気泡が生まれる理由があるはずですよね。そこに触れるには、「なぜこの泡が生まれるんだろう?」といった自分への「問い」が必要です。例えばこの間、小学生の女の子が「眉毛が濃くて悩んでいる」と話してくれたのですが、そのとき、「どうして眉毛が濃いとダメなの?」と問うと、「みんなそうだから」「そう言われたから」と、明確な理由はありませんでした。そこから「その人はどうしてそう言ったんだと思う?」などの問いを重ねていくと、彼女自身もそこに根拠がないことに気づいて、悩みが解けていくわけです。
今日から実践!お悩み別「哲学」で固定観念から自由になる
お悩み①周囲の反応が気になって、自分の意見を口にしづらい
「よく思われなきゃいけない」「正しいことを言わなければいけない」という考えにとらわれているのだと思います。どれだけ身近なパートナーや友人、家族といえども、お互いの間には大きな価値観の違いがあるかもしれません。ただ、違いはあっても、ちょうどいい落としどころというか、折り合えるところがあるはずです。仕事の場合、もし仕事の場で提案の内容よりも「自分がどう思われるか」が気になるのであれば、それは仕事に集中できていないということではないでしょうか。まずは不安要素を解消する方向に意識を切り替える必要があると思います。
お悩み②強い意見に圧倒されて、対話ができない
一番のポイントは、進行役や上司など、その場においてある種の力を行使できる人が、「いろいろな意見を聞いて学びたい」という態度を取れるかどうかです。なかなか難しいことではありますが、力を持つ人が自身の態度を変えて、あえてリラックスしたゆるい雰囲気をつくれたなら、場の空気は変わっていくと思います。あなたの意見も私の意見も、真理を追求するためのもの」だと考えれば、お互いの関係性は、それほど気にならなくなると思います。その視点をずらして1対1で向き合ってしまうから、気後れして言えなくなってしまうんですよね。
お悩み③途中で意見を変えると、意志が弱いように見えて恥ずかしい
気づきや新しい視点を得ることで考えが広がり、変わっていくことは恥ずかしいことでも悪いことでもありません。「意見は常に同じでなければいけない」という思いにとらわれているのだと思いますが、考えがよりよい方に変わることは悪いことではありません。「さっきまでこう思っていたけれど、話を聞いているとあなたの意見が正しいと思います」と言えたら素敵ですよね。さらに、「こんなふうにも考えられるのでは」と対話を発展させられたら、それは素晴らしいことだと思います。
誰もが社会の縛りや狭い問いにとらわれやすいので、問いを立てたり、いろいろな人と接する中で「もしかしたら選択肢はいろいろあるのかもしれない」と視野を広げていくことは、自分自身の生きやすさはもちろん、他者への想像力を育み、周囲の人の生きやすさにもつながっていくと思います。
「ネガティヴ・ケイパビリティ」とは?"モヤモヤを解決しない力"が必要な理由【哲学者・谷川嘉浩さんインタビュー Part1】
モヤモヤをそのまま心の棚に置いておき、余裕があるときに取り出して考える
――「ネガティヴ・ケイパビリティ」とは、モヤモヤをそのままにしておくことを許容する力、と言われています。変化が速く、問題解決が迅速かつ柔軟に求められる現代において、この力を持つのがよしとされるのは逆行的にも感じられます。もう少し深く、この「ネガティヴ・ケイパビリティ」の意味を教えていただけますか?
谷川先生:「ネガティヴ・ケイパビリティ」は、立ち止まって考える姿勢のこと、モヤモヤを抱えておく力のことです。確かに「ネガティヴ・ケイパビリティ」は、問題解決とは対照的な能力です。ただ、このせわしない現代社会では、むしろ重要になることだと私は考えています。
日常の業務や家事では、即座の反応が求められます。時間内に作業を完了させなければならない。そういうとき、これまで通りの問題解決の手段、パッと思いつくアイデアによって事を済ませますよね。でも、それでいつもうまくいくわけではないから、暮らしというのは厄介なわけですよ。人間関係のトラブルも、仕事の問題も、家庭の問題も、予期せぬことはいつでも起こりうる。そういうとき、新たな考え方や方法で取り組まないといけないかもしれない。
では、どうするべきか。一方では、その場を何とか収めながらも、他方では、「なんか違ったな」という違和感を消さずに心の棚に取っておくんです。そして余裕があるときにモヤモヤを取り出して、「なんで引っかかったんだろう」って後からゆっくりと考えればいい。これが、ネガティヴ・ケイパビリティのひとつの形だと思います。そう聞くと、忙しい現代人にもネガティヴ・ケイパビリティが必要な理由は理解してもらえると思います。引っかかりを無視しない力なんですよね。
言い換えると、ネガティヴ・ケイパビリティは、自分がわかったと実感したときに、「いや、違った見方もできるんじゃないか?」「もしかして理解した気分になっているだけでは?」とツッコミを入れられることなんです。自分の納得を疑い、揺らすことができるかどうか。
つまり、「ネガティヴ・ケイパビリティ」は、「わからないことを安易に解決せず、違和感に向き合い続ける力」のことなんです。
「自分自身を単純化しないこと」が、「ネガティヴ・ケイパビリティ」につながる
――「モヤモヤ」は仕事や家事の場面だけでなく、自己や人間関係においても生じます。そんなとき、その悩みが解決できそうなWEB記事を検索したり、自己啓発本を読んだりして「新しい手札」を探すことは、「ネガティヴ・ケイパビリティ」にはならない、ということでしょうか?
谷川先生:自己啓発本は、ネガティヴ・ケイパビリティを奪うほうに加担していると思います。多くの自己啓発本は、「自分は心の奥底で『本当にやりたいこと』を知っている」「揺るぎない自己を持つことが必要だ」などと想定しています。
例えば、「自分の無意識や直感は、自分の意識が把握できない『正解』を知っている」と考える自己啓発本は珍しくありません。体や直感(=無意識)が、「本当の揺るがない自分」や「本当にやりたいこと」を教えてくれるという議論です。
でも、もともとの「無意識」は、「人間は自分自身が把握できる範囲だけで心ができ上がっているわけではありませんね」と示唆するために導入された概念なんです。だから元来の「無意識」概念は、「自分という存在は、ままならないものだし、自分自身ですら把握しきれないものだ」というネガティヴ・ケイパビリティ的な発想を含んでいます。
それにもかかわらず、自己啓発本は、その言葉の意味を捻じ曲げてまで「不変の本当の自分」を想定し、「それが自分にはわかるに違いない、コントロールできるに違いない」と考えているんです。
でも、実際に自己啓発本がやっているのは、自分の中の一側面を「これが自分だ」と断言して、自分のすべてであるかのように装うという単純化です。自分自身を単純化せず、心の中にさまざまな自己を見つめることが、「ネガティヴ・ケイパビリティ」につながるのだと思いますね。
これまでにない手札を増やせるのが、「ネガティヴ・ケイパビリティ」の創造性
――しかし、モヤモヤの解答を即座に出せるなら、それが効率的であり、悩む必要がありません。では、「モヤモヤをそのままにしておく」ことの利点は何でしょうか?
谷川先生:問題解決モードのとき、私たちは自分の手札の中から有効そうなものを選ぶ、という発想になりがちです。私もこの取材の直前に「プロフィールのテキストを早く提出してください」という連絡が来て、考えている時間がなかったので、過去のプロフィールを流用しました(笑)。
このように、日常で使っている素早い問題解決は「すぐに出てくる手頃な判断、考え」でしかありません。この方法で、判断の速度は確保されますが、手札が増えることはありません。似たような手札を切り続けると、かつてあった手札を失うことすらあります。
でも、ネガティヴ・ケイパビリティを発揮する時間、つまり、立ち止まって問題や違和感に向き合う時間を持つことができれば、「そもそもこれって問題なのかな」「実はこっちのほうが問題かもしれない」と課題のコンテクストを再定義(=リフレーミング)したり、あるいは、これまでなかった解決手段(手札)を探したりすることができます。こういう意味で、立ち止まる余裕は大切だと思います。
――「ネガティヴ・ケイパビリティ」を使えば、手札が増えるということでしょうか?
谷川先生:今までの手札で解決している感じがしないから、モヤモヤするんです。つまり、「モヤモヤしている状態」というのは、文脈を再定義したり、これまでにない手札を探したりしている状態なんですよ。ということは、モヤモヤを考え続けていくと、新しい手札が増えるはず。
これがネガティヴ・ケイパビリティの創造性です。手札や見方を増やす時間は、回りまわって、日常の問題解決や判断のあり方を改善することになると思います。
スマホによる「常時接続」がもたらす変化と「ネガティヴ・ケイパビリティ」の新しい可能性【哲学者・谷川嘉浩さんインタビュー Part2】
SNSはジャンクなストレスコーピング。本質的な解決には結びつかない
――急速にモバイル機器が普及した結果、私たちは空いた時間をスマホでの情報収集やSNSに使うようになりました。哲学の視点から見て、その問題点とは一体何なのでしょうか?
谷川先生:スマホを使うということは、情報や刺激の濁流に身を置くことです。特にSNSなんて、様々なコンテンツが驚異的な速さで流れてきますよね。そして、関心がなくても無意味にそれを見てしまうことも多い。
どんどん違うものが流れてくるショート動画系なんて特にそうです。つい見てしまいますが、振り返ってみると特に何も得ていないことも多いです(笑)。たぶん、実際はそんなに楽しくないんですよ。
――確かにずっとショート動画を観ていると、暇はつぶれますし、なんとなく楽しい気持ちにもなりますが、記憶に残るものは少ない気がします。「無」をたくさん観て、なんとなく面白がっているだけなのかもしれません。
谷川先生:さまざまなジャンルの動画が数十秒で切り替わっていくショート動画は、うすーく楽しい刺激です。認知のリソースそこまで使わなくてもいい代わりに得るものは少なく、暇だけつぶして通り過ぎていく。
いろいろな種類のジャンクフードや強いアルコールで口寂しさを満たしているイメージですね。おいしいけれど大味なので、情報量がうすいから、注意深い鑑賞や観察に堪えない。SNSでの暇つぶしはそんな感じです。
しかし、これは現代で選ばれやすいジャンクなストレスコーピングのひとつだと思います。注意を分散すればするほど、ひとつひとつのことに集中しづらくなり、「ちょっとした酩酊状態」になれるんですよ。この状態でいると、心の中の不安やモヤモヤから注意を逸らせます。
――「ストレスコーピング」と聞くと、悪いものではないのかもしれない、とも思えてきましたが、常時接続によるデメリットとは何なのでしょうか?
谷川先生:「ちょっとした酩酊状態」になることは、意識を消して手っ取り早く自分の不安を払っている状態です。熱があるから解熱剤を飲むみたいな対症療法で、これは根本原因に向き合うようなやり方ではない。対症療法も別にやってかまわないんですが、「ジャンクな刺激」で不安から注意を逸す以外のやり方ができないと困る。本質的な意味で不安を受け止めることができないままですし、解決には至らないからです。ジャンクフードや強いアルコールがその場では楽しい気がしても、長期的に見ると心にも体にもよくないのと同じですね。
<寂しさ>とは、他者がいるのにつながれない状態に感じるもの。<孤独>とは別物です
――それでは、私たちはどのようにして本質的に自分の不安やショックを受け止めればよいのでしょうか? 例えば寂しさによって不安を感じるときは、ついスマホで「孤独」を埋めてしまいがちな人は多いと思います。
谷川先生:まず、<寂しさ>と<孤独>の違いのお話をしたいと思います。ハンナ・アーレントという哲学者の定義を引用させてください。
彼女は<寂しさ>を人に囲まれているときに感じる感情だと言っています。他者がいるのに、その他者とつながれない状態に感じるもの、ということです。そして現在はその<寂しさ>の物理的な距離が広がっています。
常時接続によって、「遠くで誰かがワイワイやっている」ところをいつでもどこでも見ることができるようになりました。その結果、身近ではない盛り上がりに対しても「取り残されている気がする」と感じてしまう。物理的に距離のある<寂しさ>も生まれてしまったんです。
この<寂しさ>とは、まわりから取り残されることへの恐れです。ちなみにインターネットやSNS上で起きる<寂しさ>には「FOMO」(Fear Of Missing Out)という名前がついています。これは最新情報をリアルタイムでチェックしないと、盛り上がっているメディアを見ていないと、ずっと連絡を取り続けていないと、取り残されてしまうのではないか……という不安のことです。
――それは<孤独>とどう違うのでしょうか? 「孤独=一人=寂しい」と思い込んでいました。
谷川先生:ハンナ・アーレントは<孤独>を「自分自身と過ごしている状態」のことだと言っています。この孤独の時間は、「一人の中に二人いる」だとも表現されるんですね。これは、自分の中にいくつかの自分がいて、その自分たちと過ごす……という意味です。二人と言わず、何人いてもOKだと僕は考えています。
シンプルに言うと「心を分ける」ということです。
<孤独>の時間が圧倒的に足りない、常時接続の時代
――心を分ける、とはどういうことか詳しくお聞きしたいです。例えば「夢を追いかけたい心」と「諦めて安定を取りたい心」をそれぞれ別の自分として扱う……みたいなイメージでしょうか?
谷川先生:そうですね。例えば「仕事中の自分」「家族と過ごすときの自分」「友達といるときの自分」などの自分を区別するということ。漫画表現であるみたいに、自分の中の「天使と悪魔」みたいなイメージでも、「本音と建前」でもいい。要するに、私たちは心の中に無数の自分を持っているんです。その自分たちをすべて別人として分ける。「心を分ける」とは、自分を一枚岩と考えずに、群衆としてとらえることです。
『株式会社 自分』と考えるといいかもしれません。社内では、いろいろな立場の自分が異なる意見を持っている。両立できないプロジェクトが立ち上がることもあるし、争いも起きる。与えられている裁量も違うかもしれません。
そのような立場や意見の異なる自分を分けて考え、その自分たちと一緒に過ごし、対話する。それがハンナ・アーレントの言うところの<孤独>です。異なる自分が複数いて、それらが対話するからこそ、自分の中から新しい考えや手札が出てくる可能性がある。異質なもの同士の出会いの中からしか、新規性というのは生じませんから。
しかし、常時接続時代のせいで、私たちにはこの<孤独>の時間が圧倒的に足りていないんですよね。余白の時間があると、すぐに誰かや何かとつながってしまう。スマホによるジャンクな刺激によって<孤独>のための時間を奪われているように感じます。
――逆に考えると「SNSの中の自分」もいるように思います。一人でいるときにSNSをすることを「SNSの中の自分といる」ととらえ、スマホやSNSを通じて自分と向き合うことはできないのでしょうか?
谷川先生:できないとは言い切れませんが、得策ではないと言いたいですね。
私たちはスマホに慣れすぎていて、「SNS上の自分」をかなり発達させているところがあります。なんとなく世間受けしそうな、「誰でもない誰かの期待」を内面化してしまっているのが「SNS上の自分」です。これは不特定多数用の自分なんですよ。
――確かに、「不特定多数用の自分」と向き合ってしまうことは、自己対話というより、マーケティングに近くなってしまいそうですね。
谷川先生:「マーケティング的な自分」。それはいい言葉ですね。SNS用の自分とは、「みんながいい人だと思いそうな人」にチューニングを合わせたものですから。
人間はそもそも社会的な生き物であり、誰しも空気を読むことは避けられません。だからこそ、<孤独>の価値は、不特定多数用ではない自分をどう発達させていくかにあるのだと思います。普通に生きていると難しいからこそ、「世間に合わせた自分」「SNS用の自分」とは相反する自己をどう育てるかということが大事なんですよ。
スマホ時代を経たからこその「ネガティヴ・ケイパビリティ」
――インタビューのPart1でお話ししていただいた「モヤモヤをそのままにしておく力」「わからないことを安易に解決せず、向き合い続ける力」である「ネガティヴ・ケイパビリティ」。考え続けることで、これまでにない手札を見つけることができる…というお話しでしたが、その創造性を妨げてしまうのが「常時接続」だというイメージを持ちました。ということは、スマホがない時代、例えば昭和期なんかには、そのような問題はなかったのでしょうか?
谷川先生:そうとも言えないですね。スマホがなかった頃は、確かに通知や刺激は少なかったけれど、そのぶんアクセスできる価値観も少なかった。例えば「女性は教育を受けたらお嫁に行けない」みたいな世界で生きている人が「そうじゃないよね」という価値観にたどり着くことが難しい時代だったと思います。
社会の価値観が特定のものしかない状況では、「他の選択肢はないんだろうか?」と想像することは難しい。たぶん、漠然とした違和感に留まり、具体的なモヤモヤや自己対話の形をとることはほとんどなかったはずです。
でも、常時接続により情報がどんどん流れてくる時代になった結果、私たちは多様な価値観に気軽にアクセスできるようになり、選択肢が急速に広がっている。「他の生き方もある」と気づきやすくなったのは、やはりスマホやSNSの功績です。そういうときにこそ、迷いや悩み、モヤモヤが生じる余白が生まれます。
――スマホでさまざまな価値観をインストールした現代だからこそ、「ネガティヴ・ケイパビリティ」にさらなる創造性が生まれた……ということでしょうか?
谷川先生:そうですね。現代の情報の濁流の中で得た知識や価値観をベースに、<孤独>の中でいろいろと考え、想像していく。つまり、SNS以降の多様な価値観を前提に、ネガティヴ・ケイパビリティを発揮しようとするのが望ましいでしょう。今日の日本社会で、メンタルヘルスの分野で「ネガティヴ・ケイパビリティ」という言葉が注目されはじめたのも、スマホが生活や人間の在り方に大変な影響を与えているからこそだと思います。
無数にある情報の中からあたかも自分のことを指しているような言葉を見つけてそれを自分だと思い込むような「自己の単純化」ではなく、得た情報を<孤独>の中で思考に使い、自分の力で新しい自己を探っていくこと、世間に合わせた自分ではない可能性を掘り下げること。それが常時接続に飲み込まれず生きるためには必要だと思います。
東洋哲学って何? 悩みに効くって本当? 東大卒の元芸人・作家、しんめいPさんの解説が“自分探し”に効く!【インタビュー前編】
東大卒・元芸人・作家
東京大学法学部卒業後、大手IT企業に入社するも退職。その後地方に移住し、教育事業をするも退職。一発逆転を狙って芸人として「R-1グランプリ」に出場するも1回戦で敗退し引退、無職に。同時に離婚も経験し、引きこもって布団の中にいたときに東洋哲学に出合い、衝撃を受ける。そのときの心情を綴った「note」が話題となり『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』(サンクチュアリ出版)を出版。
東洋哲学ってそもそも何?
──『東洋哲学本50冊よんだら「本当の自分」とかどうでもよくなった話』と題した「note」の投稿が注目を集め、2024年4月に書籍化した『自分とか、ないから。 教養としての東洋哲学』がとても話題になっています。多くの人が漠然と東洋哲学にひきつけられていることがうかがえますが、そもそも東洋哲学とは何なのでしょうか?
しんめいPさん(以下、しんめいP):実は、“東洋哲学”は比較的新しい言葉。明治時代あたりから、アジアを盛り上げていこうという動きがある中で、井筒俊彦という東洋思想の研究者が仏教、禅、密教をはじめ、東洋思想の哲学的な側面に光を当てて、「東洋哲学」という言葉をあえて使ったことが一つのきっかけになったのではと考えています。
個人的には、そういった西洋哲学だけではなく、東洋思想にも光を当てるような動きを応援したいなという思いがあり、あえて東洋哲学という言葉を使わせてもらっています。
──西洋哲学とはどのような違いがあるのでしょうか?
西洋哲学の特徴を簡単に言うと、後輩が先輩のマウントを取りまくるんですよ(笑)。例えば、「プラトンが言ってることはおかしい。なぜなら、こうだから」みたいに論理を積み上げて、批判ができる。
いっぽう、東洋哲学は、先輩が言おうとしたことを後輩がめちゃくちゃ頑張って解釈する。先輩がすごいレベルの境地まで行ったから、そこに行く方法を後輩たちが編み出していくようなイメージです。
例えば「ブッタが悟りました」って言われても、悟ったことがない大多数の人にとっては疑いようがなくて、信じるしかない。ある意味、東洋哲学は信仰に支えられているといえるので、宗教とは切り離し難いんです。
──なるほど。その違いを生み出す要因はどんなところにあるのでしょうか?
ひとつ、大きな切り口で言うと、“言葉をどれだけ信用するか”という点ですね。
西洋哲学の中でも東洋哲学に近いものもあったりするので、一概にこうとは言い切れないのですが、言葉を信頼したうえで理論を積み上げていくのがざっくり西洋哲学かなと思っています。
例えば、「私という個人がいて、あなたという個人がいて、この二人は平等であり、自由です。それを担保するには法律が必要です」といった感じで、言葉によって社会を積み上げていく考え方を取るんです。
いっぽう、東洋哲学は「いや、“個人”っていう言葉にしちゃった時点で、そぎ落とされるものあるよね。個人ってただの言葉だし、個人が水を飲んだときに、その水はその人の一部になったけれども、その境界線はどこにあるの」といった調子で(笑)。言葉を信頼しすぎるとパンクしてしまうんですよ。
言葉を信用してないから、言葉を超えた世界をまずは体験するところから始めようみたいな話になり、ヨガありきのインド哲学、瞑想ありきのブッダみたいなところに行き着くんです。
ただ、そうはいっても、「東洋哲学を言葉では理解できないから信じるしかない」じゃあ救いがないですよね(笑)。だからブッダの語った言葉だったり、後輩たちが語った言葉によって、ある程度論理を積み上げていくことで、少なくとも気持ちがラクになれるところまではいけるんじゃないかっていうふうに思って、今回、本を書いたんです。
──だからこそ、しんめいPさんの著書は、東洋哲学を通し、多くの人が新たな視点を得るきっかけになり、話題を呼んでいるのかもしれませんね。
なぜ、人生の悩みに東洋哲学が効く?
──ご自身も、無職となり、離婚を経験し、引きこもっていたときに東洋哲学と出合い救われたそうですが、特に影響を受けた考え方はありますか?
しんめいP:“無”ってただの概念で、怖くないんだということですね。例えば、自分が何者でもなくなることって結構怖いことだと思うんですよ。
経済的に困窮するとかいう話以前に、会社や学校など所属がなくなると自分を定義する言葉がなくなる。それって得体の知れない怖さがありませんか? でも、実はその怖さと向き合ってみると割と何でもないっていうことに気づけたんです。
“無”の対義語は“有”。人は、「才能がない」「お金がない」「イケメンじゃない」とか、いろんな“有”と比較して、“無”の状態をネガティブなものとしてとらえがち。例えば、地方に行ったときに地元の方が「何もないのよ〜」とおっしゃったりしますが、山も川も林もある。ここでの“無”は都会という存在ありきで成り立つ概念なのです。
もっといえば、猫や犬からすれば、“有”も“無”もなくて、言葉で作られたバーチャルな世界におけるフィクションでしかない。虚無感みたいなものは、喜怒哀楽と一緒で、ひとつの感情でしかなくて、“無”ってラベルを貼っていなければ、他の感情と同じく過ぎ去っていくと感じています。
“無”であることを受け入れられないと、逆に何かがある状態に執着して、賞や資格が欲しくなったり、大学院に行って学歴が欲しくなったりする。でも、“無”と向き合うと、最初は苦しいんですけど、認めちゃうとめちゃくちゃラクになって、結果、いろんなことがうまくいったりするんですよね。
──なるほど。そうはいっても、いきなり“有”に対する執着を手放すのは難しいかもしれません。東洋哲学の視点で、執着を手放すためのコツはあるのでしょうか?
しんめいP:あらゆるものごとや肩書き、体を自分のアイデンティティと同一視しないということですね。
例えば、自分の顔に対してセルフイメージを誰しも持っていると思いますが、諸行無常(=世のすべてのものは移り変わり、永遠に変わらないものはない)というように老いからは誰も逃れることはできません。若い頃のセルフイメージ=自分と思うと、どうにかそれを維持しようとさまざまな苦悩や苦労が生まれます。
他にも僕の場合、作家という肩書きを持ち、それを自分と同一視すると、「作家なのに最近本書いてないって思われそうだな」と自分がダメな人に思えてくる。でも、焦って何かを書いてもおそらくあまりうまくいかず、また苦しみが生まれます。
頑張って得てきたものであればあるほど、同一視しやすく、執着や苦悩の原因になりがちなので、いったん、自分から切り離し、あらゆる悩みは言葉で作られたバーチャルな世界でのフィクションなんだと少し俯瞰してみる。そんな東洋哲学的な視点で、受け入れ、手放していくといろんな悩みがラクになるかなと思います。
「“自分らしさ”はフィクションにすぎない」ストレス社会でラクに生きるための東洋哲学をしんめいPさんが解説!【インタビュー後編】
みんな“言葉の魔法”にかけられている!?
──2024年4月に上梓された、『自分とか、ないから。 教養としての東洋哲学』の中で、東洋哲学には「ラクになる」という目的があると書かれています。東洋哲学の考えを毎日の生活の中で取り入れ、心をラクにするコツはありますか?
しんめいP:インド仏教の僧侶、龍樹(りゅうじゅ)の「空」の哲学では、「この世界はすべてフィクション」といっています。これはどういうことかというと、この世界は言葉の魔法が生み出してる夢の世界、言ってしまえばディズニーランドと同じだということですね(笑)。
例えば、同じスイーツでも、パッケージに「北海道〜」とかが入っていると急に魅力があるように感じたりしませんか?
人間関係や家族もフィクション。同じ人でも「見知らぬ人」→「友達」→「恋人」と次々に変化したり実は実体がない。また、兄弟という概念も兄がいなければ弟はいないし、弟がいなければ兄もいない。つまり、互いの存在に依存して、言葉の魔法をかけあって、幻の世界を生み出しているというわけです。
そうやって考えるとあらゆるものが言葉の魔法によるフィクションということが腑に落ちてくるのではないでしょうか。
これらを踏まえ、僕が実生活で大事だと感じているのは「フィクションに溺れない」ということです。
ディズニーランドなら、お金を払ってきている夢の国=“フィクションの世界”と理解して楽しんでいるから、わざわざ排水溝とか建物の間とか見て「うわ、カビ生えている!」とか言わないし、外に出たらその魔法は自然と消えますよね。
でも、これが仕事や家族とかもう少しリアリティのある、感情が揺れ動く世界になったとき、「フィクションであることを忘れてしまう」ということが結構起きるんです。そうすると、「もうここからは出られないんじゃないか」みたいな思考回路に陥りやすい。外に出られないディズニーランドみたいな状況ですよね。
もちろんフィクション自体が悪いわけではなく、それを必要としているシーンもたくさんあります。でもどのフィクションを生きるかは僕たちが選べるんです。
──フィクションに溺れないための具体的なアドバイスはありますか?
例えば、目の前に“怖い上司”がいるとします。でも、「空」の哲学では“怖い”も“上司”もフィクション。もしその瞬間、本気でそう思えなかったとしても「本当はフィクションなんだよな〜」という目線を持つことが思い詰めないで済む方法な気がしています。
結局、会社も上司も、張りぼてでできているんですよ(笑)。オンライン会議でちらっと映った背景が汚いとか、食べ方が汚いとか、家では“普通のおじさん”っていうのが垣間見えるシーンがあったり。
どんな人にもちょいちょい“魔法が解ける瞬間”がある。それを見逃さず、あらゆるものはいざとなれば抜け出せるフィクションだと思うと、実生活でも気持ちがラクになると思いますよ。
“自分らしさ”もしょせんはフィクションと思えばラクになる
──近年は、働き方や生き方も多様化し、以前と比較すると自分が選びたいフィクションを生きやすくなっているのかもしれません。いっぽうで、自由に選択できる分、自分がしたいことや自分軸に悩む人も増えている印象があります。
しんめいP:確かにそうですね。本のタイトルにもありますが、“自分”なんて本当はなくて、“自分らしさ”もやはり、フィクションに過ぎないんです。
僕たちの労働力って、仕事をするうえでの商品みたいなものですよね。そこで「自分が選ばれるために他の人と差別化するには?」ということを考え出すと、やっぱり“自分らしさ”みたいなところに行き着きやすい。
ただ、前提としてこうした資本主義的な空間は、発注者がいて、クライアントがいて、自分がいて…とバーチャルなものを想定したうえで成り立っているんです。
資本主義の中で「自分らしさ」といわれるものは「自分の商品価値」であり、それがそもそもフィクションであり、ゲームであり、ただのストーリーにしか過ぎないっていうことを忘れずにいるというのがやはり大事だと思います。
人生の選択に悩んだら、思考を緩めてみる
──みんなそれぞれのフィクション、ストーリーを生きていく中で、キャリア、人間関係、結婚、出産などいろんな選択に迫られるシーンがあります。こういったシチュエーションで役立つ東洋哲学的な考えはありますか?
しんめいP:まず、「チョイスするのは本当に自分なのか」と問うてみるのが面白いなと思っています。よく岩盤浴に行くんですが、僕自身がいろんな選択に迫られたときに行くと、いろいろ湧き上がってくる感情があるんです。
例えば、新しいA社から仕事の依頼がきて、受けるか迷っているとする。「どうしよう」という迷いの裏には、A社のメールの文面からくる何かにモヤっとしていたりするんですよね。それは普段、無視して生きているんですが、岩盤浴とかで油断した状態になると、無視していた感情がコンコンとノックしてくるみたいな感覚があるんです(笑)。
それをちゃんと咀嚼していくと、「あの喋り方、上から目線だったよな」とか「昔、嫌だった先生に似てたな」みたいに、数珠つなぎでいろんな感情が出てきて。そうして、自分の中に蓄積していた湧いてくる感情に丁寧に、丁寧に、耳を傾け、消化していった結果、勝手に答えが出てるみたいな感覚。
すると、意思決定してるのが自分なのかって結構怪しくないですか?
頭で考えている世界が、いい意味で油断して、ぼやけて、脇に置いてた違和感とかが、ふと思考の合間を縫ってちゃんと出てきてくれる。その状態を作るのが僕の場合は岩盤浴なんですが、ヨガの人がいればランニングだったり、友達とのおしゃべりだったり、何でもいいと思います。
宿題みたいにたまっている、感じ取れていない感情や感覚を流れ作業のように掬い上げていくことで、いつの間にか行きたい方向が決まっている。選択する感覚すらない、みたいなのが自分なりに生きるコツなのかな、なんて思っています。