2022年、年明けに妊娠出産を公表された富永京子さん。社会運動研究者として、変わりゆく社会を冷静に見つめてきた富永さんですが、出産を経て、自身が「母になった」と思われることに対して、どこか腑に落ちない、複雑な気持ちがあったそうです。

yoi×国際女性デー「Our Place -私たちの場所-」では、多くのウェルネスメディアで活躍するライターの長田杏奈さんをお招きし、体・心・性にまつわる「変化」についてお二人にお話しいただきました。生きていくなかで誰しもが向き合う自身の変化、そして、「変わりたい」「変わりたくない」という葛藤はどこから生まれるのか。社会的なことと個人的なことを足場に、深く深く潜っていくような対談になりました。

富永京子 Tominaga Kyoko
1986年生まれ。 立命館大学産業社会学部准教授。社会運動について研究をしている。著書に『社会運動のサブカルチャー化』(せりか書房)、『社会運動と若者』(ナカニシヤ出版)、『みんなの「わがまま」入門』(左右社)など。朝日新聞東京版で「富永京子のモジモジ系時評」を連載中。
長田杏奈 Osada Anna
1977年生まれ。美容をメインに、インタビューやフェムケアなど、数多くの雑誌で記事を執筆するライター。著書に『美容は自尊心の筋トレ』(Pヴァイン)、責任編集に『エトセトラVOL.3 私の私による私のための身体』(エトセトラブックス)。

vol.1

変わっていく「私」と社会。

でも、変わるのが怖いこともある

富永
長田さんとの最初の接点は、私が2019年に出した『みんなの「わがまま」入門』という本を、長田さんがご著書『美容は自尊心の筋トレ』にからめて、メディアなどでプッシュしてくださったことがきっかけだったと思います。
長田
その後、富永さん自らが主催の『みんなの「わがまま」入門』刊行記念パーティにも招待していただいたんですよね。東京駅近くのホテルが会場で、取材で会った方から大学で教えられている学生さんたちまで、本当にいろんな人たちが集まっていて。そういう「ありがとうを伝えるパーティ」って素敵だと思ったし、富永さんのお人柄が伝わってきて、印象に残っています。
富永
ありがとうございます。私にとって、長田さん、そして『美容は自尊心の筋トレ』との出会いは大きな出来事でした。実は、今日は長田さんとも会えるし、撮影もあるのでドレスを新調して装ってきたんですけど、以前の私だったら「研究者のくせに、そんなチャラチャラしてどうする」と自分自身につっこんでいたかもしれません。でも、〝装った自分が公の場で発言すること″を自虐的な目線で見ることは、社会においてすべての人が声をあげやすい状況の妨げになってしまうのかなと感じたんです。装うこと、それを楽しむことを享受していいんだということは、長田さんの影響で私が変わったことのひとつです。

「つらい」って声をあげやすくなった?

ウェルネスメディアの盛り上がりと社会の今

長田
富永さんが、装うことやメイクに抵抗があったのはどうしてなんですか?
富永
身体性、つまり自分の体を意識することを避けていたんだと思います。生理の話をするのは今でも苦手だし、化粧をしたり装っている姿も、あまり他人に知られたくないものだと思っていました。
今となってはとても恥ずかしいんですが、メイクや装いというものを社会的なことよりも下に見てしまう部分があったんだと思います。どこかに「それってチャラくない? それより(ミシェル・)フーコーの話をしているほうが高尚じゃない?」というような、変な意識がありました。
長田
なるほど。今は社会としても、体について少し話しやすい環境になりつつあるのかな。例えば、最近はyoiのように、体や心、性のトピックにフォーカスしたウェルネスメディアも増えてきましたよね。フェムテックに絡めて身体と向き合う特集もいろんな媒体で見かけるようになったりして。
富永
そうですよね。以前はウェルネスメディアに対しても「それってピンクウォッシュ、つまりお金儲けに利用してるだけでしょ?」と思っていたかもしれません。というのも、私は社会運動の研究をしているのですが、運動をするうえでは、着飾らない人が強い、自分の体にはかまわず時間をかけて参加していればしているほどかっこいい、といった風潮があります。装いとか身体のケアは企業のお金儲けだから、距離をとるべきだという考え方が根っこにあるわけですよね。だからこそ、身体性に向き合うウェルネスという分野を疑問視する物差しが自分の中にもあったんです。
でもあるとき、その物差しは、主に社会運動を担う男性を中心に積み重ねられた価値観や慣習に過ぎないという研究を読んで気づきました。ウェルネスメディアやフェムテックの目線はそれとは別のものと考えるべきじゃないかと。
長田さんはウェルネスメディアでの執筆の機会も多いと思いますが、最近の流れはどう感じていますか?
長田
そうですね。コロナ禍の影響もあって社会全体の元気がなくなってきているのに対して、メディアの打ち出し方も「みんな元気を出そう」という方向ではなくなってきた、というのを感じます。「アドレナリン全開で成長!」みたいな段階は通り越して、成長よりも成熟や心地よさを追求する。「自分の苦手なこととうまくつき合っていこう」「それなりにやっていこう」みたいなムードが生まれているように思います。
富永
おっしゃることは、大学で指導している学生たちを見ていても思いますね。自分の弱さに対して素直になっているのかな。彼ら彼女らは「就活で病んでます」みたいなことを普通に言ってくれるんです。たぶん、私の頃だったら、病んでいても「それは努力できない自分だけの責任」だと強がって、誰にも言えず抱え込んでいたでしょうから。個人の努力でできることには限界があるとわかっていて、きちんと社会や時代に問題の構造を見いだすことがうまくなっているのかな。

「出産しました」公表への葛藤。

子どもを持ち、「変わりたくない」自分に気づく

富永
近年、社会側の変化を強く感じているんですが、私個人としては自分の「変化」に抵抗を感じることも多くて。
2カ月ほど前に出産をしたのですが、なかなか妊娠出産を公表できなかったんです。たくさんの人に向けて発信する仕事もしていますが、公表したら私の語る内容の説得力が、まるで変わってしまうんじゃないかと。
例えばラジオやテレビに出ていると、「1986年生まれ、北海道出身。立命館大学准教授。社会運動の研究をしている」みたいなプロフィールが出て、産後はここに「一児の母」が加えられることもあります。その肩書がわざわざくっつくことで、急に「富永京子」ではなく「母」の意見として捉えられる可能性がある。これまでの自分がいなくなってしまうような感覚で、それが怖かったのかなと思います。
長田
富永さんのおっしゃっている不安はよくわかります。私もリクエストがあったときにしか、プロフィールに「二児の母」と書かないようにしています。役割の前に自分個人として見られたいし、子どものプライバシーも大事。ただでさえ、「母親はこうあるべき」という古い役割意識が残る社会で、無駄に色眼鏡で見られたくないというのもあります。
以前受けたインタビューで「長田さんは〝ママみ″(ママっぽさ)は出さないんですか?」って聞かれたことがあるんです。「ママみ」とはいったいなんなんだろうと思いました。普通に子どもたちと暮らしていて、自然に今の私なわけです。あたかも出し入れ自由な「ママみ」というものがあって、演出すれば何かうまみがあるかのような前提に、ちょっとなじめなさを感じます。
富永
ママにまつわる言説はたくさん飛び交っていますよね。私も「子どもを産んだら全部が変わるよ~、時間もなくて仕事も二の次になるよ~」と口をそろえて言われて、仕事が楽しい身からすると、〝予言″をされたようでかなり恐怖感がありました。
あとは体型の変化にもすごく悩みましたね。妊娠していることを悟られないように頑張っていても、体の変化はどうしようもなくて。公表したあとに「うすうす気づいてました」と言われて、へこんだり……。
長田
そうそう。妊娠しているだけで、よく知らない人から、人生について雑に予言されるようになったり、なんのてらいもなく体型の変化を指摘されたり、突然お腹をさわられたりすることって、ちょっと無礼講が過ぎるんじゃないかな。でも、おめでたいからいいじゃない、のひと言で片付けられがちですよね。もちろん気にしない人はいると思いますが、とまどったり、いやだなと思う人もいるはず。「こう感じるべきだ」という大枠に沿って、みんなが自分のリアルな感情を覆い隠す必要はない。「不快感を抱くほうがおかしい」みたいな押し付けはいただけないですね。公表されてから、実際のお気持ちはいかがでしたか?
富永
今のところ、想像していたよりも、大変なことは起きず、周りにいる人たちを信じて、公表してよかったなと思います。でもできれば個人的なことにとどめておきたかったという葛藤も消えたわけではないという感じでしょうか。

撮影/花村克彦 取材・文/阿部洋子 企画・編集/小島睦美(小説すばる) 高戸映里奈(yoi)