『しあわせは食べて寝て待て』水凪トリ ¥748/秋田書店(A.L.C.DX)
大切なのは、“私なり”のちょうどいい心地よさ
体調をくずすのはつらい。頼れる人がまわりにいない場合は、なおつらい。そう知ったのは、一人暮らしを始めて数年がたったあとだった。深夜に胃腸炎を発症、トイレから離れられずに夜明けを迎え、近所の内科に行こうとしたら歩けなくなっていた。それが深刻な脱水症状ゆえだったとわかったのは、救急車で搬送され、入院してからのことだった。
そんな経験を思い出したのは、本作の主人公「麦巻さとこ」の置かれた状況を目にしたためだ。38歳で独身の彼女は、小さなデザイン事務所で週4日のパート勤務をしている。もともとは建築関係の会社で正社員として働いていたが、膠原病を患ったことで毎日の出勤が難しくなり退社。体調に合わせて無理なく働くために、現在の職場を選んだのだ。
難病ではあるものの、障害年金が出るほどの症状ではない。働き方について担当医へ相談してみても婚活を勧められる始末で、さとこは「まさかのセクハラかよ」と内心で悪態をつく。膠原病の女性患者は圧倒的に専業主婦が多いというデータを思い出し、「きっと仕事をしていた人でも続けられなかったんだろうな」とうつむくさとこだったが、マンションの更新料の知らせを前に、現実へと引き戻される。
本作は月刊誌『フォアミセス』で、2020年の2月から連載されている。1話は16ページほどの読み切りでゆっくりと進む。2021年の11月には2巻が刊行された。丁寧に描き込まれた表紙のイラストは爽やかな生活感があり、作品の世界観がにじむ装丁と併せて印象に残る。
さて、家賃を抑えるためにさとこが選んだのは、築45年の団地だった。下見に行った先で、部屋の持ち主であり隣に住む老女「美山鈴」と出会う。鈴はさとこの体調不良が頭痛にあると見抜き、生の大根をかじって深く息をするように勧める。突然のおせっかいに不信感を抱くさとこだったが、家に帰るさなか、頭痛がすっかり収まっていることに気づく。
その日の体調や他人の心無い言葉に左右され、ちょくちょく落ち込むさとこの姿は他人事ではない。心身のバランスをくずすということは、自分が思う自分ではいられないこと。そうなれば、自信がなくなっていくのも当然だ。そんな負のループに陥るさとこに対し、鈴は微笑みながら語りかける。〈こう考えるのはどうかしら 新しい自分になったのだって〉──。
以前を懐かしんでも状況は変わらない。過去の自分を基準とせず、今の自分なりに、それなりに生きていく。そうしているうち「けっこう楽しいことって起こるわよ」と軽やかに笑う92歳の鈴の言葉は、沈んださとこの心だけでなく、読み手である自分の気持ちにもすっと沁み込んでくるものだった。
鈴の同居人である青年「司」や、団地の住人たち、そしてさとこの勤務先の人々との日々。時に波風はありながらも、物語は穏やかに進んでいく。また、人間関係の中で描かれる食材の解説もうれしい。何をどうやって誰と食べるか。そのひとつひとつに意味があり、生活を整えていく力になり得ることを、私たちは本作を通して無理なく知っていくことができる。さとこの暮らしを見守りながら、薬膳の知識を楽しんで読みつづけたい。
女性マンガ家マネジメント会社広報
元書店員。在職中より、マンガ大賞の設立・運営を行なってきた。現在は女性漫画家・クリエイターのマネジメント会社であるスピカワークスの広報として働きながら、小さな書店でもアルバイト中。
文/田中香織 編集/国分美由紀