今週のエンパワメントワード「この世界にアイは、存在する。」
ー『i』より_1

i』西 加奈子 ¥748/ポプラ文庫

信じることで、世界は何度でも描き直せる

同じ数字を掛け合わせれば必ずプラスになる数学の世界で唯一、二乗するとマイナスになる数。
座標軸のどこにも印を付けられないけれど、「どこかにはある」と認めなければ科学は秩序とまとまりを失い、あらゆる常識が崩壊してしまう不可思議な存在。
かつて数学者はそれを“虚数”と名付け、“i(アイ)”と記した。


西加奈子さんの小説『i』は、虚数と同じ響きの名前を与えられた主人公が、国や社会、生い立ちや容姿、LGBTQなど、さまざまな環境や境遇の中で、自分の存在(アイデンティティ)を問い続ける物語だ。


アメリカ人の父と日本人の母の養子として、シリアからやってきた「ワイルド曽田アイ」。
環境的にも経済的にも恵まれ、「どう生きるか」という選択の自由も与えられている彼女は、けれどそれを無邪気に幸福と思えるタイプではなく、「なぜ自分だったのか」と後ろめたさを感じる繊細な心の持ち主だった。


祖国の内戦、親友からのセクシュアリティの告白、人種差別、経済的格差、世界中で相次ぐ災害や事故・事件…。多くの命が危機にさらされ、また、自由に生きる権利が奪われていくさまを想像するたびに、アイは自分を責め続ける。――私はここにいていいの?
そういうとき彼女が、歪んだおまじないのように繰り返すのが、虚数iを説明することば。
〈 こ の 世 界 に ア イ は 存 在 し ま せ ん 。 〉
自分をしっかり持った愛ある子に育つようにと両親が付けた名前に、「存在の否定」という新たな意味を加えると、アイは何故か安心するのだった。
でもそれはまやかしの救済でしかなく、げんに彼女の心は蝕まれていくーー。


人間が想像する生き物であるかぎり、考えることから逃れることはできない。だから自分と他人を比較するし、幸不幸や優劣や美醜のあることにも苦しむ。自分自身に対しても、理想通りにいかない現実に絶望する。
アイは想像力によって心を壊してしまったが、ふたたび取り戻すきっかけを得たのも想像力だった。それはこれまで否定し続けてきたものを、信じる力。
〈この世界にアイは、存在する。〉


虚数の存在を証明できないように、アイがその名に背負った「愛」や「I(自分)」や「アイデンティティ」もまた、実に輪郭の掴みづらいものだ。でもそれならば、その形をどう描くかも自分次第。
〈この世界にアイは、存在する。〉
想像することをポジティブな力に変えたことで、アイの世界に“アイ”が存在した。ならば私たちはどうだろう。自分の力で、この世界にいなくてはならない自分と出会うことができるのではないか。
否定的な感情に絡め取られそうになっても、残酷な現実に打ちひしがれても、想像の続くかぎり、かならず。

木村綾子

木村綾子

1980年生まれ。中央大学大学院にて太宰治を研究。10代から雑誌の読者モデルとして活躍、2005年よりタレント活動開始。文筆業の他、ブックディレクション、イベントプランナーとして数々のプロジェクトを手がける。2021年8月より「COTOGOTOBOOKS(コトゴトブックス)」をスタート。

文/木村綾子 編集/国分美由紀

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