今週のエンパワメントワード「幸せなフリをしても声はウソをつけない」ー『ブエノスアイレス』より_1

ブエノスアイレス 4K
8月19日よりシネマート新宿ほか全国順次公開/配給:アンプラグド
© 1997 BLOCK 2 PICTURES INC. © 2019 JET TONE CONTENTS INC.

声が告げる真実と、ひとつの恋の終わり

終わった恋にすがるほど虚しいことはない。どんなに努力しても、一度消えた火はそうたやすく再燃しない。それでも、人はかつての幸福な日々にすがってしまう。自分たちは幸せな恋人同士なのだと、他人だけでなく、自分をも騙そうと必死になる。

ウォン・カーウァイが1997年に監督した『ブエノスアイレス』は、腐れ縁のゲイカップルを主人公にしたラブストーリー。ただし、ただロマンチックなだけの恋物語ではない。この映画が描くのは、彼らの恋が終わりに近づいていく、その最後の過程だからだ。

喧嘩と復縁を繰り返してばかりいる「ウィン」と「ファイ」は、香港からアルゼンチンへと旅に出るが、その途中、いつものように喧嘩別れをしてしまう。一人になったファイは、帰国の費用を貯めるためブエノスアイレスのバーで働きはじめ、そこに新しいボーイフレンドを連れたウィンがやってくる。しつこく復縁を迫るウィンに、ファイは最初こそ冷たく突っぱねるが、結局はずるずると彼を自分の家に住まわせてしまう。

ウィン役を演じたレスリー・チャンの小狡く甘える顔がまた絶妙だ。こんな人に「ねえ、やり直そうよ」と甘えられたら誰だって断れない、そんな気がする。一方、トニー・レオン演じるファイは、惚れた相手にはとことん尽くすタイプらしい。「おまえとやり直すなんてまっぴらだ」と冷たく応じながらも、怪我をしたウィンをかいがいしく介護し、自分が風邪を引いたときでさえ、彼のために料理を作る。正反対の性格の二人は、ある意味で相性ぴったりのカップルなのだ。

ウィンと小さなアパートで暮らしはじめたファイは、新たに食堂で働きだし、同じ店で働く台湾出身の後輩「チャン」と親しくなる。子どもの頃、目を悪くし聴力に頼る方法を覚えたチャンは、今でも周囲の話し声を熱心に聞いているらしい。その理由は「耳は心の中まで察知できる」から。そして〈幸せなフリをしても声はウソをつけない〉とも。本気にしないファイに、チャンはたしかに声でなんでもわかるのだと説明し、こうつぶやく。「先輩は、今幸せじゃない」。

チャンの言葉は、ファイの心に鋭く突き刺さる。仲睦まじく暮らしているかに見えて、実はウィンとの恋はもう終わりに近づいていた。関係が壊れたのはいつからなのか。ファイが束縛するほどウィンは逃げようと必死になり、ウィンが抵抗すればするほどファイはさらに彼を縛りつけたくなる。ファイは、自分たちは今が一番幸せなのだと必死で言い聞かせるが、〈声はウソをつけない〉。壊れた関係はもう元には戻らない。そんな残酷な真実を、彼自身の声が告げていたのだ。

ファイ自身ですら気づいていない変化に、チャンがいち早く気づいたのは、いつも職場でファイが誰かに電話する声に、こっそり耳を澄ませていたからだ。電話の先に誰がいるのかはわからないまま、チャンはその幸せそうな声に惹かれた。そしてその声に悲しみが混じりはじめたとき、彼の人生に何かが起きたと察知したのだ。

恋の終わりはいつだって痛みを伴う。それでも、自分の声に耳を澄ませ、本当の気持ちを見抜いてくれた人がいるという事実は、ファイの傷ついた心をきっと慰めてくれるだろう。映画の最後、せつなくも美しい恋物語を締めくくるのは、ファイの静かなモノローグ。決してウソをつかないその声に、私たちはそっと耳を澄ます。

月永理絵

編集者・ライター

月永理絵

1982年生まれ。個人冊子『映画酒場』発行人、映画と酒の小雑誌『映画横丁』編集人。書籍や映画パンフレットの編集のほか、『朝日新聞』 『メトロポリターナ』ほかにて映画評やコラムを連載中。

文/月永理絵 編集/国分美由紀

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