競泳オリンピアンの伊藤華英さんがリーダーを務める「1252プロジェクト」。若い世代に生理の正しい知識を広める活動をしている団体です。後編の今回は、伊藤さんとともにプロジェクトを牽引する、東京大学医学部附属病院の産婦人科医、能瀬さやか先生にお話を伺いました。

誤った健康情報や都市伝説に惑わされないで

能瀬さやか先生は、国立スポーツ科学センターで女性スポーツ選手の健康支援や調査研究に携わるかたわら、2017年、ご自身が所属する東京大学医学部附属病院に女性アスリート外来を開設。女性選手とは切り離せない月経(生理)にまつわる課題に関してサポートをしてきました。2021年にスタートした「1252プロジェクト」でも、産婦人科医として重要な役割を果たしています。

「月経にまつわる問題を抱えているのはスポーツ選手だけでなく、一般女性も同じ。でも、好きでスポーツをしているのに、月経のことで苦しみ、スポーツをやめてしまう人をたくさん見てくるなかで、自然と女性アスリートの健康にかかわるようになりました」

女性アスリートの健康問題にとりくむ能瀬さやか先生

「10年ほど女性アスリートの問題にかかわってきて、若い世代にきちんと教育をすることが最大の課題だと感じています。強い月経痛のある月経困難症やPMS(月経前症候群)、PMSの一種でメンタル不調の強いPMDD(月経前不快気分障害)、過多月経などについて、10代のうちからきちんと知識を持っていてほしい。

私自身、アスリートだけでなく女性全般のヘルスケアにつながればと、講演やメディアでも情報発信や啓発をしてきましたが、なかなか情報が行きわたらないもどかしさをずっと感じていたんです。そんなときに伊藤華英さんに声をかけていただき、『1252プロジェクト』にかかわるようになりました。近年はWebサイトやSNSで、生理に関する間違った情報もよく見かけます。やはり、その世代世代にマッチする言葉とプラットフォームで、正しい知識を広めていくことが大事だと感じています。そういう意味でも『1252プロジェクト』は格好の発信源なんです」

Webサイトで見かける誤った情報…具体的にはどんなものなのでしょう?

「いちばんは、低用量ピルに対する誤解。月経トラブルは低用量ピル等のホルモン製剤で治療することが多いのですが、低用量ピルを使用すると『妊娠できなくなる』『ドーピングに引っかかる』などといった都市伝説的な言説が、いまだに信じられている部分があります。選手もコーチも、そういった情報に惑わされて低用量ピルを使いたがらない。以前、国立スポーツ科学センタでー日本のトップ選手683名のデータを元に調査したことがありましたが、66%の選手が『月経の日程をずらせることを知らなかった』という結果に衝撃を受けました」

月経周期の調節方法を知っているアスリートの割合(2012年)

2012年5月に国立スポーツ科学センター(JISS)がトップアスリート683名を対象に行なった調査では、66.2%が「月経周期をずらせることを知らなかった」と回答。JISSは2014年以降、希望するアスリートに個別に月経周期調節法の情報を提供。リオ2016年オリンピックに出場したアスリート164名への調査では、月経周期の調節方法を知っていると回答したのは97%となりました。
能瀬さやか他. 女性アスリートにおける月経周期の調節. 産婦人科の実際 , 64 , 1501-1511, 2015

「欧米に比べて、日本では、低用量ピルに対する情報の普及が昔から全然進んでいないように思いますね。低用量ピルは現在では低用量化が進み、成分もさまざまなタイプがあります。主流は超低用量ピルです。例えば、新体操などの審美系競技、レスリングなど減量の必要な競技では体重が増えてはいけないので、競技特性ごとにホルモン製剤の種類を選択して処方しています。もちろんドーピングにも引っかかる心配のない薬です。

がんについても、ピルは卵巣がんや子宮体がんのリスクを下げることが明らかになっています。ホルモン製剤による対策を行うかどうかの選択は選手に任せていますが、まず正しい情報を知ってほしいと切に願います」

WEBサイトにはヘルスケアに関する情報があふれています。特に健康や医療に関する記事について、本当に間違いない内容が書かれているかどうかを判断するにはどんなことに気をつけたらよいでしょう?

「基本は、医師が監修していること。監修ではなくても、その原稿が医師に取材して書かれているかどうかは判断材料になると思います。また、そのWEBサイトを制作・配信している母体がきちんとした組織かどうかを見る習慣をつけるといいと思いますね。『1252プロジェクト』もこれからSNSでの情報配信に力を入れていく予定ですが、これまでの調査結果は無論、きちんとしたエビデンス(科学的根拠)に基づいた情報を広めていきます。見た目はとっつきやすく、内容は最新の正しい知識、重要な情報を!ですね」

もっと気軽に婦人科を利用して、パフォーマンスを上げてほしい

「1252プロジェクト」では、プロジェクトリーダーの伊藤華英さん、能瀬先生がナビゲーターとなり、さまざまなトップアスリートとの対談「Talk up 1252 」をYouTubeにアップしています。テーマはもちろん「月経とスポーツ」。元選手たちの月経に関する赤裸々なエピソードは、ちょっとびっくりすることばかり。今だから笑って話せることも、現役当時は大変だっただろうと想像できます。

東京オリンピックを目指していたときに子宮筋腫が発見された体験を語ってくれたのは、第6弾に登場している元レスリング日本代表の伊調馨さん。見つかった子宮筋腫は徐々に大きくなり、経血量も増え、最終的には手術で540gの筋腫を摘出したと言います。伊調さんは学生時代、「男性指導者には月経のことは言い出せなかった」とも。月経を含めたコンディションについて、周囲に相談すべきだとわかったのは社会人になってからだったそうです。

PMSのあるトップアスリートの割合と症状

 

2014年に、国立スポーツ科学センターが630名のトップアスリートを対象に調査を行なったところ、70.3%にPMS(月経前症候群)が見られ、最も多い症状は、体重増加や精神不安定(イライラ)でした。
能瀬他, 日本臨床スポーツ医学会, 2014 


「指導者は男性が多いですから、10代の若い女性アスリートは月経に関することはなかなかコミュニケーションをとりにくいんです。『1252プロジェクト』では指導者向けのセミナーや講習会なども各地で開催しています。指導者に知識があっても、それが生徒に降りていかないことには意味がないですから。最終的には、こうした活動を通して、月経対策だけでなく、自分の体のことは自分で考えて自分で決められるような、自立した学生を育てていきたいんです」

能瀬先生は1252プロジェクトのもうひとつの活動の柱として、10代向けの月経に関する教育用動画の制作も進めており、これまでに34本の動画を公開。すでに7,500名以上が視聴しているといいます。
※動画などの教育用素材は下記からダウンロードが可能です。
女性アスリート外来(東京大学医学部付属病院 女性診療科・産科)

プロジェクトの活動について語る能瀬先生

東京大学医学部附属病院 女性診療科・産科 特任講師「女性アスリート外来」医師
能瀬さやか先生
1979年生まれ。日本産科婦人科学会専門医、日本スポーツ協会公認スポーツドクター、日本パラスポーツ協会公認障がい者スポーツ医、日本女性医学学会女性ヘルスケア専門医、医学博士。一般社団法人 女性アスリート健康支援委員会 理事。「女性アスリート外来」では、外来診療に加え、女性アスリート、女性パラアスリートの健康問題に関するさまざまな啓発活動に尽力。アスリート本人はもちろん、指導者やコーチ、教育関係者や保護者など、アスリートを支える方々へのサポートや情報提供などにも積極的。

「このプロジェクト以外にも私のかかわっている活動で、女性アスリート健康支援委員会という団体があります。女性アスリートの健康保持や競技力向上を軸に女性のQOL向上をサポートする活動を行なっているのですが、ここではまず、アスリートの月経コントロールなどの知識について、産婦人科の先生方への情報提供が必要でした。そこで、4年かけてすべての都道府県をまわって講習会を実施しました。現在は1500名ほどですが、どの医療機関に受講した先生がいるのかはWEBサイト内で検索できるようになっています。もし、女性の月経問題で困ったことがあったらこの団体のサイトをぜひ利用していただきたいですね」

月経の悩みには、子宮筋腫や子宮内膜症をはじめとする病気が隠れていることもあります。スポーツ選手もそうでない人も、不安に思う症状があればまずは産婦人科を受診して、ドクターに相談することがとても大切です。

「地方では『婦人科クリニックに入って行く姿を誰かに見られると、妊娠したのかと疑われる』なんていうことがいまだに言われています。婦人科は妊娠出産のためだけに行くところではないし、スポーツをする女性のコンディショニングやヘルスケアにもかかわっている科であることを知っていただき、もっと気軽に受診できるところになってほしい。

それにはもっと月経教育が必要ですね。そして男性も女性自身も、10代から体のことをもっと知ってほしい。月経コントロールによってパフォーマンスが十分に発揮できるようになったスポーツ選手もたくさんいます。また、トップアスリートが自分の経験として語ることで、一般の方たちにもインパクトをもって伝えることができます。今後も『1252プロジェクト』を含めいろいろな団体と連携しながら、若い世代や女性アスリートたちをサポートしていけたらと思っています」

取材・文/蓮見則子 撮影/さとうしんすけ