作家の槙生と高校生の朝の生活を中心に、他者や社会と向き合う人々の姿を描く『違国日記』。最終回に向けて、静かに物語が動き始めています。作者であるヤマシタトモコさんへのインタビュー後編では、自分を縛る社会規範を脱ぎ捨て、一人の“わたし”として生きる術について考えていきます。

ヤマシタトモコ インタビュー 違国日記 最終回

©ヤマシタトモコ/祥伝社フィールコミックス

違国日記 ¥748/祥伝社
少女小説家の「高代槙生(こうだいまきお)」は、姉夫婦の葬式で遺児の「田汲 朝(たくみあさ)」が親戚間をたらい回しにされているのを見過ごせず、勢いで引き取る。だが槙生は、誰かと暮らすには不向きな自分の性格を忘れていた…。対する朝は、“大人らしくない大人”に見える槙生との暮らしを素直に受けいれていく。不器用人間と子犬のような姪がおくる年の差同居譚。 

ヤマシタトモコ

漫画家

ヤマシタトモコ

2005年にデビュー。2010年、「このマンガがすごい! 2011」オンナ編で『HER』が第1位に、『ドントクライ、ガール』が第2位に選出される。『さんかく窓の外側は夜』は2021年に実写映画化&TVアニメ化。現在連載中の『違国日記』は2019年から2年連続で「マンガ大賞」にランクインしたほか、「第7回ブクログ大賞」のマンガ部門大賞を受賞。「全人類に見てほしい」など、共感や絶賛の声多数。
 
 

愛するということ自体が、恐怖に打ち勝つ行為

ヤマシタトモコ インタビュー 違国日記1

©ヤマシタトモコ/祥伝社フィールコミックス

――『違国日記』の中でご自身が気に入っているエピソードはありますか。

毎回ネームに苦しみながらも、わりとこの作品は自分でも気に入る話が描けているかなという気持ちではあります。まだ単行本になってないけれど、51話ではこれまでちゃんと描けていなかった部分に少しフォーカスできたかな。

――大嫌いだった、もうこの世にはいない姉に、槙生が心の中で話しかける回ですね。「わたしがあなたの大切なあの子を大切に思ってもいい?」と。

その直前に出てくる「愛するということ自体が、恐怖に打ち勝つ行為」っていうセリフは、結構前からネタ帳に書いてあった言葉で、この話の真ん中を貫いているテーマです。実は、最終回がすごく近いんですけど。

――ああ、そうなんですね。さみしい。

51話は、『FEEL YOUNG』(祥伝社)の7月号に載る予定の最終回にむけて、そんなに下手じゃなく舵を切れているんではないかと思えた回でもあります。

――誰かを愛することの怖さを、愛自体が乗り越えさせてくれる。最初はぎこちなかった槙生と朝の関係性の変化を感じます。最終回の内容はもう決めていらっしゃるのでしょうか。

これから描くのでまだわかりませんが、ある程度は計画していたところに着地するのかな。私はでき事を考えるのが苦手なので、感情からプロット(筋書き)を立てるんですね。こういう気持ちにたどり着くようにっていう物語のつくり方をしていくんですが、私が思うよりもずっと『違国日記』は愛していただけたから、どうでしょうね。私が描きたいものを描いて、読んでくださっている皆さんに納得をしていただけるかどうか。でも、私なりに優しく終わりたいと思っています。 

ヤマシタトモコ インタビュー 違国日記2

©ヤマシタトモコ/祥伝社フィールコミックス

「なりたいわたしになりたい」という願いを縛るもの

――作品の中では、さみしさについても繰り返し言及されています。登場人物たちの「さみしい」には素直な気持ちから人生の本質的な孤独までが詰まっているような気がして、考えさせられます。 

最初は、他人と過ごすことが苦手な槙生が、誰かと一緒にいたいタイプの朝と、どうしたら折り合っていけるか…というところから自然と出てきた言葉でした。でも、6年かけて描く中で「さみしい」という言葉がどんどん拡大していきましたね。10代の子たちの「さみしい」「むかつく」って言葉の中には、言語化しづらい苦しみや、やるせなさがどのぐらい込められているんだろうかと思うんです。本当はもっともっと細分化していけるものではあるけれど、その曖昧さを、そのまま感じてもらえたらうれしいですね。 

――高校生の朝やえみりの「なりたい自分になりたいのっ‼︎」「あたしはただ あたしでいたい」というセリフも印象的ですよね。『違国日記』では、“らしさ”を求める社会の中でどうやって“わたし”として生きるかが問われているようにも感じるのですが、ヤマシタさんご自身は社会的役割に違和感を感じられたことはありましたか。 

前回お話した、子どもの頃に感じた物語からの疎外感は、そもそもそういう「社会的な規範から外れている自分」という意識でもあります。私は子どもの頃からずっと男の子に間違われつづけて、内面的にも外見的にもいわゆる「女らしさ」に適応できないというコンプレックスを長いこと引きずっていたんですが、その根源も社会規範なんですよね。そういう“らしさ”が自分に要求される理由をよく考えてみたら、「(そんな理由)…なくない?」みたいな。 

――自分でも気づかないうちに、そういった理不尽なルールにすごく縛られていたりしますね。

“らしく”あるべき理由はないと気づいたときに、本当に楽になったんですよ。自分がしたい格好をして、声色をつくることもなく、10cmのヒールをはいて電車の網棚に頭をぶつけたって別にいいじゃねえかと。ただ、私の場合はそれに気づくまでに時間がかかったので、そんなくだらない考えに若い時期を費やしてしまったことを「ああ、もったいないことをした」ってすごく後悔したんです。だから、若い人にはやりたいことをやってほしいという気持ちが強くなりました。 

――とてもよくわかります。 

『違国日記』の中で描いている「なりたいわたしになりたい」みたいなことも、キャラクターによって思いの強度は全然違うんです。その歳で、そんなに切実なことを言うなよ…っていうぐらい切実なセリフとして描いているシーンもあるし、もっと何でもないバカバカしい願いのようでいて、それは一生苦しむ話だよねというシーンもある。でもどれも、「なりたいわたしになる」っていちばん難しいですよね…という気持ちで描いています。 

ヤマシタトモコ インタビュー 違国日記3

©ヤマシタトモコ/祥伝社フィールコミックス

ヤマシタトモコ インタビュー 違国日記4

©ヤマシタトモコ/祥伝社フィールコミックス

疲れたときは休めばいい。でも、自分の言葉を探すことはあきらめずにいたい

――ヤマシタさんはフェミニストを公言されていますが、そこには何か大きなきっかけがあったのでしょうか。

うーん…もう長いこと会っていないので今はどうかわかりませんが、私の場合は家族の一人がある時期すごく女性差別を吐き出す人間だったんです。ひどいことをたくさん言われたし、「なぜこんなことを言われるのだろう?」と思ったけれど、家族の年長者による言葉の強さもあって受け止めるしかなかった。その時期に「どうして嫌なんだろう?」っていう疑問を繰り返し咀嚼して、自分の中で内面化されたミソジニー(女性嫌悪)を解体する作業をしてきました。そうした考えを自分の価値観として内面化していたせいで行っていた、自分自身や周囲への加害や抑圧の再生産なんかを反省して見つめ直しながら、そういう暴力に対してどう立ち向かうべきかを考えていた時間がありましたね。

――それはとてもタフな作業でしたね。どうやってそこから抜け出されたのですか。

何度も、どこまでも考えて、自分と対話しながらできるかぎり言語化することでしょうか。言葉を尽くすということ。好きなものを称えるときも「語彙をなくすな」っていう話をよくします(笑)。崇拝するんじゃなくて、持ちうる限りの言葉で100回褒め称えようよって思うんです。私たちが捧げられるものは、それしかないから。

――言葉を磨こう、と。

いいことも悪いことも、言語化するって本当に大事だと思うんです。抑圧に抗議したくてもできないときって、やっぱりそれは言葉にできていないときだから。なぜ私がそれを嫌だと思うのか。なぜその行為が許されないのか。なぜ私は、私に対してこう思ってしまうのか。そういうことを話したり、止めたりしたいときには、まず言語化することがいちばんの道だと思います。

――そういえば、朝の日記を思わせる『違国日記』の詩的なモノローグは、言葉にすることで彼女が自分でもよくわからない感情の居場所をつくっているようにも見えます。槙生が言葉を剣に例えるシーン(6巻)もありましたが、改めて『違国日記』は徹頭徹尾、言葉のマンガですよね。

私が入れているタトゥーのひとつに「生きることは戦うことだ」というラテン語の言葉があって。私自身、いろいろな作品に救われたり支えられたりすることはあるけれど、誰かの言葉を丸呑みしてそれに寄りかかって生きるのではなく、そこから自分の言葉を探せたら、それをサボらずにいられたら素晴らしいなあと。それ自体が生きることで、戦うようなことだと思うんです。もちろん同時に、時間や、体力や、経済的な余裕がないときは自分を守ることが第一。自分を守ることや休むことに罪悪感を感じる必要もないと思います。そうやって順繰りに一緒に戦っていけたらなと。

――自分の言葉を手放さないことの大切さを心に刻みつつ、槙生と朝がどんな思いにたどり着くのか、最終回を楽しみにしています。ありがとうございました。 

ヤマシタトモコ インタビュー 違国日記 フィールコミックス

©ヤマシタトモコ/祥伝社フィールコミックス

取材・文/横井周子 編集/国分美由紀