1967年に『バラ屋敷の少女』でデビューして以降、『ベルサイユのばら』『オルフェウスの窓』といった歴史大河ロマンや、社会問題に切り込んだ短編など、数多の作品を発表してきたマンガ家の池田理代子先生。47歳の時に東京音楽大学声楽科に入学し、現在はソプラノ歌手として舞台に立ちながら、オペラの演出も手掛けられています。後編では、多方面での創作活動を続ける池田先生に、表現することについての想いを伺いました。引き続き、元マンガ誌編集者で、京都精華大学新世代マンガコース非常勤講師も務めるライターの山脇麻生さんが聞き手となってお話を伺います。〈yoi3周年スペシャルインタビュー vol.4 後編〉

池田理代子 インタビュー 自宅 漫画家

池田理代子

マンガ家・声楽家

池田理代子

1947年生まれ。1967年にマンガ家デビュー。1972年に『週刊マーガレット』にて連載を開始した『ベルサイユのばら』が空前の大ヒットに。そのほか、代表作に『オルフェウスの窓』『おにいさまへ…』『栄光のナポレオン エロイカ』などがある。45歳で音大受験を決意し、1995年に東京音楽大学声楽科に入学。現在も声楽家として活躍している。また、歌人としても活動しており、2020年に第一歌集『寂しき骨』(集英社)を発表。

どんな創作物でも、「言葉」を大切に

——マンガに始まり、エッセイや短歌、舞台の脚本とさまざまな方面で創作活動を続けてこられた先生ですが、それらの創作にあたる際、何か気持ち的な違いはあるのでしょうか?

池田先生違いは特にないです。言葉で表すか、絵で表すかの違いはありますが、絵で表すにしても言葉も大事ですし。

——先生がお書きになるセリフは、美しくて深いところにストンと入ってきますもんね。パッと思いつくだけでも、「冬のオリオンを浮かべた瞳」とか、「この春の一番うつくしいすずらんをおまえに贈ろう」とか。先生にとって言葉は大切なものですか?

池田先生やっぱり、「言葉がすべて」です

——それはやはり、豊富な読書経験に裏打ちされているのでしょうか。

池田先生:そうですね。小学生のときは割と親から与えられたものを読んでいて、中学生になって初めてお小遣いでヘルマン・ヘッセの『車輪の下』を買いました。それから『獄中記』を読んで。男色を咎められたオスカー・ワイルドが、投獄されていたとき、お相手の方におくった書簡集なんですが、今だったら同性愛で懲役ってありえない話ですよね。あとは中学の3年間でドストエフスキーを全巻読んで、ロシア物に傾倒していました。自然描写が素敵で、そのときは言葉をノートに書き写したりして。

自己肯定感の低さや、人づき合いの苦手さからマンガの道に

オルフェウスの窓 ロシア 漫画 池田理代子

ロシアが舞台のひとつとなる作品『オルフェウスの窓』より。©池田理代子プロダクション

——中学生でドストエフスキー全巻読破…。ちなみに先生は中学生の頃、どんなお子さんだったのでしょう?

池田先生割と自己肯定感が低かったですね。「不細工だ」と言われて育ったので。


——先生の過去のインタビューでそのエピソードを見て、驚きの思いでいました。

池田先生:いえいえ、本当に。そこで自分だけの空想の世界に浸る時間を持ったことが、創作につながっていったんだと思います。それと、人とつき合うのも下手でした。高校を卒業して大学に通うとなったとき、通学するのがとにかくつらくて。「今でこんなにつらいんだから、会社勤めするようになったら、毎日服を取り替えて、ちゃんとお化粧をして、嫌な人がいても一緒に仕事に取り組まなくてはならないだろうし、そんな人生耐えられない――」ということがわかったので、ひとりでできる仕事を探さなきゃと思っていたぐらいです。


——それで、大学在学中にマンガの持ち込みを始められたんですね。18歳でそこまでご自身を俯瞰してみられるのがすごいです。その年の頃は、自分が何者であるかもわかりませんでしたから。

池田先生私も自分が何者であるかはわからなかったけれど、「自分には無理なこと」はわかっていました。友達はいましたけど一人か二人。ブラスバンドでトランペットを吹いていましたけど、そこでも人づき合いをするというより、同じクラブ活動の仲間だからつき合っているという感じで。あとは物理クラブとか、あまり人が来ないような部活にも入っていました。


——初恋の方とはよく音楽の話をしたそうですね。先生の歌集『寂しき骨』にありました。

池田先生:音楽の話は、一方的に向こうから教えてもらっていた感じです。その人は中学の生徒会長をやったりして、神童と言われていました。


——イケメンだったとか。

池田先生:特にそうは思いませんでしたが、イケメンと言われていましたね。こちらは、向こうから話かけてくるのにどう対応していいのかわからなくて、何か言われてもつんけんして。すると、それが魅力的だと言うんです。向こうは女生徒からキャーキャー言われ慣れているから、そんな対応が新鮮だったんでしょうけれど、こちらは「キレイな人はいくらでもいるのに、どうして私になんか声をかけてくるのだろう」と思っていたので、ついぞちゃんとした話はできないまま、別々の高校に入って別れました。高校に入ってからも、私が乗る電車を調べて乗ってきたことがあって、「うわー、いるよー、どうしよう」って、そのときも何の話もしないまま。


——そのエピソードがすでに少女マンガですよね。初恋をそこまでビビッドに覚えていらっしゃる記憶力がすごいと思いました。

今でも物語の種を考える。常時500個のアイディアをストック

池田理代子 作品 漫画

池田先生が生み出された、たくさんの作品たち。(yoi編集部員 木村の蔵書の一部)

——作品の着想についてもお伺いしたいです。やはりご興味のある本からということが多いですか?

池田先生:そうですね。

——本との出合いはどうやって?

池田先生:偶然の出合いもあるし、書評を見て買うときもあるし。木原(敏江)さんや萩尾(望都)さんとかとも話していたんですけど、プロのマンガ家というのは、常時500個ぐらいはアイディアのストックを持っていないと何十年も続かないよねって。そうやってアイディアを書き留めておくと、時間がたって、その中のいくつかが熟成していくんです


——500個! たくさんあるアイディアのストックの中で、「ちょっとこれは無理かな」と、ご自身でボツにされたこともあるのでしょうか?

池田先生:あります、あります。たくさんあります。


——そういったアイディアは今も考えていらっしゃるんですか?

池田先生それはもう常に考えていますね。何か思いついたら「こういう物語はどう?」と家族に聞いて。そうすると「書いたら?」っていつも言ってくるんです。マンガが無理なら、小説でもって。


体力があったらもっと書いているんですけど、体力もないし、年のせいでメンタルも弱ってきていて。描きたくて、描きたくてしょうがない頃を過ぎて、描きたいものはあるけれど、描かないまま終わる作者が結構多いんじゃないかなと思います。人間、限りがありますから。

——500もアイディアがあると、そういったものも出てきますよね。ぜひ、先生の書いた小説を読んでみたいと思ってしまいますが。

池田先生:どうなんだろう。私、小説が下手みたいで。昔、賞に応募したことがあるんですけどダメだったんですよ。


——“応募”ですか? 編集部に直接言えば、「ぜひ、ウチで!」となりそうですが。

池田先生:デビュー前の話ですよ。選外佳作が最高だったので、才能がないんだなと思って。でも、短歌は好きで、いろいろと詠ませていただいています。

——そうだったんですね。先生の短歌はストレートな言葉が響きます。『寂しき骨』に収録されていた「作品は男ものこす 我はただ 女に生まれた理由(わけ)を知りたし」などは、非常に印象に残っています。

池田先生その歌は、「子どもが居なくてもいいじゃない。あなたは作品が子どもじゃない」と言われることに対する反発なんです


短歌は、やっぱり技法とか色々あるらしくて、素直に、ストレートに歌にしちゃわないみたいですよ、本当は。

——そこは、作る方の個性なのではと思ってしまいますけど。

池田先生:私もいいじゃないのと思うんだけど、結構批判されます。でもね、やっぱり他の方の歌を見ると、うまいなぁと思いますね。

——先ほど、メンタル面のお話もされていましたが、メンタルが落ちた時のケア方法はありますか?

池田先生:うーん、何かあったら、映画見て、昼寝しよーって。人づき合いもしないし、家にこもっているので、映画は1日3本ぐらい見るんです。最近見たのだと、『7番房の奇跡』という韓国映画がとてもよかったですね。

一生懸命生きていれば、やりたいことがそのうち見つかる

池田理代子 ポートレート 笑顔 漫画家

——最後に、この記事を読んでくださっている方へのメッセージをお願いできますか?

池田先生:かつて、私にも自分が何をしたいのか、何になりたいのかわからない時期がありました。けど、一生懸命生きていれば、そのうち見つかるので、そこで逃げないでほしいです。私は6歳のときにピアノを始めさせられて、中学高校は音大を受験するつもりでいたんですけど、才能がないなと思って普通の大学の哲学科に入りました。結局、『オルフェウスの窓』を描いて、音大への憧れを昇華してしまおうと思っていたけれど、あきらめきれずに47歳で音大に入りましたから、我ながらしつこいなぁと思います

——その結果、声楽家としても活躍されて。47歳で音大に入学されたということで、勇気づけられた方もたくさんいらっしゃると思います。ずっと心に思っていたことを始めるときや、新しい世界に飛び込むときに、遅いってことはないんだなというか。

池田先生:もちろん、それぞれ始めるのに適した時期はありますけど。私が今から新体操を始めるっていったって。ね?(笑)

——(笑)。音大受験の際は相当、努力されたそうですね。ドイツ語の成績が受験生の中で一番だったとか。

池田先生:実は…そのとき一番だったのではなく、学校始まって以来の成績だったそうですよ。ふふ。

——カッコいい…! そうやって、ずっと憧れられる対象で居続けてくださるのが、本当にありがたいです。

撮影/森川英里 取材・文/山脇麻生 企画・構成/木村美紀(yoi)