『いたらぬ僕らにケーキを添えて』川嶋すず ¥748/秋田書店(A.L.C.DX) ©川嶋すず(秋田書店)2022
大好きなのに、癒されない夜もある
書店で働いていた頃の私にとって、仕事モードへのスイッチは着替えにあった。どんなに疲れている日でも、ひとたび職場の制服を身にまとえば、途端に背筋がピンと伸びる。それは自分でも面白いくらいの切り替わりで、だから店頭に立たない職務でもシャッキリ働きたいと思うときは、着替えることが当たり前になっていた。
そんな風に、自分へハッパをかけるスイッチは人それぞれだろう。入社10年目の「有平灯(ありひらともる)」にとって、それは“スイーツを食べること”。彼はボタニカル雑貨を扱う会社の企画部に勤めており、週に一度の会議では部員がそれぞれアイデアを発表するが、最近提出した企画は連敗続き。頭を抱えた灯が休日に足を向けたのは、おいしいスイーツと内装が魅力のとあるカフェだった。
本作は秋田書店の月刊誌『エレガンスイブ』で、2021年から連載されている。形式は一話ごとの読み切り連作で、実在の店舗やスイーツが登場する。コミック発売時の帯には、『3月のライオン』などで知られる漫画家・羽海野チカさんの推薦コメントが掲載され、灯のやわらかい笑顔が描かれた表紙とともに、目を引いた。各話のタイトルが「1匙」「2匙」という表記なのもかわいい。
さて、訪れたカフェでひらめきを得た灯は、次の会議で見事に企画を立て直す。以前とはうって変わった彼の様子に部内の女性陣は思わずときめくが、灯の同期・「松沢」は彼女たちの関心をそっとはぐらかす。実は灯は既婚者ながら、わけあってその事実は松沢ら一部の者にしか知られていない。そして今では妻の夢を叶えるために、別居して一人暮らしをしていた。
灯が妻の「百香(ももか)」を想いながら、夜の部屋で一人、スイーツをやけ食いするシーンが切ない。どんなに大好きなものを前にしても、癒されないときはある。遅咲きながらドラマの主演を務めるほどの人気女優となった百香を、灯は遠くから応援し続けてきた。だが百香の願いは、彼との離婚。灯はその決断を下せないまま、残された部屋で百香のことを静かに想う。
第二話ではそんな二人のなれそめと、ある商品のリニューアル企画が描かれる。灯は後輩の「鯨井(くじらい)」とともに改良案を練っていくが、鯨井は商品への思い入れが強いあまり、空回りしてしまう。落ち込む彼女に、灯はフルーツサンドを差し入れる。
それは昔からのスタイルを守りながらも新しい味に挑戦し、お客様が求めているものに応じて変化し続ける店のものだった。灯はサンドイッチのおいしさと奥深さを語りながら、「まだ伝えきれていない自社商品の魅力を見つけ出し、アイデアを凝らして伝えることこそが自分たちの役目」と鯨井を諭す。その言葉に鯨井は、自身のエゴと、商品を別の角度から考える重要性に気づく。〈『好き』を多くの人に伝える…それって──すごくステキなことでは?〉
好きなものを自分の手元だけに留めておきたい気持ちは、灯の百香に対する想いとも重なる。彼女の夢は応援したい、でも自分のそばにいてほしい──相反するその気持ちの行く末はまだ見えない。お仕事マンガとしても、夫婦の物語としても先が気になる本作。これからを見守りながら、作中で登場したお店の味もいつか食べに行ってみたい。
文/田中香織 編集/国分美由紀