今週のエンパワメントワード「区切りなんて、つけないほうが楽なことだってあるよ」ー『岸辺の旅』より_1

岸辺の旅
デジタル配信中 DVD¥5,170、Blu-lay¥6,270/発売:ポニーキャニオン/アミューズ 販売:ポニーキャニオン

©2015『岸辺の旅』製作委員会/COMME DES CINEMAS

大きな喪失を抱えた旅の果てにあるもの


ピアノ教師をしている「瑞希」は、3年前に失踪し、行方がわからなくなった夫の「優介」の帰りを待ちつづけている。ある夜、ふと思いつき夫が大好きだった黒胡麻餡の白玉を作っていると、ふいに優介が現れる。その姿は昔のまま。ただし、彼はこうつぶやく。「俺、死んだよ」。海で死んだ彼は、3年間いろんな場所を旅し、ようやくここにたどり着いたという。そして優介は、自分がお世話になった人々に会いに行こうと、瑞希を誘う。

湯本香樹実の小説を黒沢清監督が映画化した『岸辺の旅』(2015)は、“死んだまま”帰ってきた夫と、彼を待ちつづけた妻との、不思議な旅の物語。死者と生者という立場の違う二人の旅路は、当然のように、生と死の境界が曖昧な世界へとつながっていく。

彼らが訪ねる先には、生きている人もいれば、自分が死んだことを理解できないままの人もいる。やがて瑞希たちは、ある山奥の村で奇妙な夫婦と出会う。自分が死んだあと、妻の「薫」を連れ回す夫の「タカシ」。それは優介と瑞希の関係に似ているが、タカシはすでに正常さを失い、薫を自分と同じ死の世界へ引きずり込もうとしていた。

見かねた優介は二人を引き離そうとするが、薫は「これ以上誰にも迷惑かけませんから。あと少しだけ、このままにしておいてください」と必死で頼み込む。心打たれた瑞希は、「このままにしておいてあげよう」と優介を説得し、それでも渋る彼にこう言い放つ。〈区切りなんて、つけないほうが楽なことだってあるよ〉

それは、自分たち夫婦に向けた言葉でもある。優介がすでに死んでいること、いつか彼が自分とは別の世界に行かなければいけないことはわかっている。だけど今の彼は自分のそばにいて、笑い合い、触れ合うこともできる。彼の姿も、声も、生きていたときと変わらない。それどころか、生きていたときより穏やかで優しくなった気がする。それなら、ずっと今のままでいたいと思って当然だ。せめてあともう少しだけ。本当の終わりが来るまで、曖昧な状態のままでいいから、一緒にいたい。それが瑞希の願いだ。

現代社会を生きるうえで、私たちは、前向きに生きることこそが正しいと信じて疑わない。大きな別れを体験したとき、大切な誰かを失ったとき、「いつまでも悲しんでいないで、早く前に進まなきゃ」という慰めの言葉を経験した人は多いはず。過去に囚われるのはよくないこと。だから悲しい気持ちに〈区切り〉をつけて、これからは前向きに生きよう。それは確かに正しい助言だ。だけど人の気持ちは曖昧で複雑なもの。過去を忘れて前に進むことだけが正しいとは限らない。たとえ後ろ向きに見えようと、失ったものとの思い出に延々と浸りつづける、そんな時間が必要な人もいる。

瑞希と優介の旅にも、やがては終わりが来るだろう。でもその瞬間が訪れるまで、二人は、生と死の境目も、過去と未来の区別もない、あやふやな時間のなかを彷徨い歩く。どこにも〈区切り〉などない、永遠のように続く旅。そうして旅の最後、二人は自分たちだけの愛のかたちを発見する。

月永理絵

編集者・ライター

月永理絵

1982年生まれ。個人冊子『映画酒場』発行人、映画と酒の小雑誌『映画横丁』編集人。書籍や映画パンフレットの編集のほか、『朝日新聞』 『メトロポリターナ』ほかにて映画評やコラムを連載中。

文/月永理絵 編集/国分美由紀