『臆病者の自転車生活』安達茉莉子 ¥1,760/亜紀書房
心に湧いた小さな声に耳を澄ませる
やったことはないけれど、できなさそうだから試したことがないことって結構ある。いつもの自分、安定のスタイル。気を張らなくていいし、何しろラクだ。でも、もし新しい出会いを通じて、思い込みから離れ、自分の殻から抜け出すことができるとしたら──。
そんな希望がむくむくと湧いてくる本に出合った。安達茉莉子さんの『臆病者の自転車生活』である。運動は苦手、気も弱く「心に怯えた犬を飼う臆病者」だったという安達さんが偶然自転車に乗ったことをきっかけに、横浜の街から鎌倉へ、真鶴へ、そして北海道へと旅をして、人と出会い、自分自身も変わっていくエッセイだ。
とりわけ好きなのは、真鶴をロードバイクで走りながら風景と一体化し、体じゅうで自由を感じるシーン。「どこまでも行ける、どこにだって行ける」という勇気と自信。雨の中ずぶ濡れになって、それでも目的地に到着したときの達成感は、ファンファーレがこちらにまで聞こえてくるようだ。長年抱いていた「できない」とか「できっこない」という思いをのりこえて、服装も、髪型も、そして何より心が変わっていく行動力が、眩しい。
〈走りたいと思ったとき、全てが変わっていったのだった。〉
自分の殻をやぶり、変われるかどうかの境目は、胸の奥が突き動かされるように湧き上がる小さな声に耳を傾けられるかどうかだ。安達さんは「走りたい」という自身の声に従ったのだった。
私も自転車乗りだ。電動アシスト付きママチャリ歴10年以上。通勤に、生活にほとんど毎日乗っている。以前は前後に子どもを乗せて走り回っていたが、子どもが大きくなった今では、乗せることはほとんどない。でもそのままチャイルドシートをつけて乗り続け、暑い日も寒い日も西郷山公園を横目にシートベルトをカタカタ鳴らしながら通勤している。
自転車を乗っているときでしか味わえない、流れていく景色、体力を奪わないラクな移動、頭の中がクリアになるような感覚も大好きだ。でも、私の自転車はゴツくて重たい。
安達さんの本に出てくる素敵な自転車は軽やかでいいな。ロードバイクなんて一生縁がないと思っていたけれど、ちょっと憧れる。そういえばほかの人はどんな自転車に乗っているのかと思って見回すと、代官山方面を駆けていく自転車たちの、なんとおしゃれでかっこいいことか。外国製の細くておしゃれなフレームのもの、本格的なロードバイクの人もいる。こんなふうに颯爽とした自転車乗りたちが、こんなに身近にいたのか。なんだか自分が乗っている姿が不格好な気がしてきた。
チャイルドシート、取ってもらおうかな。自転車の前後についたシートを取れば少しは軽くなって今より快適になるだろう。生活の手段としてだけでなく、もっと楽しい乗り物になるかもしれない。自転車屋さんに持っていけばすぐにできるのは知っている。でも、私にはそれができなかった。
やるかやらないか、変われるか否かの境目は、行動できるかだ。たぶん私が行動できないのは、行動の起点になるものが自分の中に湧き上がる思いではなく、見栄とか他者からの視線だったからだ。「不格好だから変えたい」じゃなくて「この自転車に乗りたい」とか、「これでどこかに行きたい」とか自分の中から出てくる「やってみたい」が湧いてきたときに一歩を踏み出せるのだと思う。
変化への期待を心にしまい、いつものスタイルから変えられない自分を受け入れて、前後に重たい荷物をのせながら坂を駆け上がったら、ビルの明かりの先に夕焼けが真っ赤に広がっていた。
全部背負ったまま「いつか」を待つ。そのときがきて、行動できるように今は準備期間だ。憧れも「やってみたい」も、湧いてきたそのときがチャンス。もう一度この本を開いて、ドキドキしながら新しい世界に引っ張っていってもらおう。
代官山 蔦屋書店 人文コンシェルジュ
代官山 蔦屋書店で哲学思想、心理、社会など人文書の選書展開、代官山 人文カフェやトークイベント企画などを行う。毎週水曜20:00にポッドキャスト「代官山ブックトラック」を配信中。
文/宮台由美子 編集/国分美由紀