『親愛なるレニー』吉原真里¥2750/アルテスパブリッシング
書簡から浮かび上がる深い愛の物語
もし何かや誰かと出会って、自分の人生に思いがけない道筋が新しくひらかれたとき、その一歩を踏み出すことはできるだろうか?
人生とは、そうした出会いと偶然で織り成されるものなのかもしれない。そんな大きなことに思いをめぐらし、胸を震わせたのが本書である。
アメリカ研究者である吉原さんは、図書館で調査中に、世界的な指揮者レナード・バーンスタインが二人の日本人といくつもの書簡をやりとりしていたことを知る。そこには戦後アメリカと世界、アメリカと日本の歴史、文化と政治の影響などを背景に、バーンスタインとかけがえのない関係を築いた二人の人生と、バーンスタインの知られざる軌跡が描かれていた。
一人目の日本人は「天野(旧姓:上野)和子」。パリで子ども時代を過ごし、ピアノを勉強していたが戦争の影響で日本に帰国した人物だ。当時18歳の和子は、戦後アメリカの文化に触れることができる日比谷のCIE図書館に通い、手に取った音楽雑誌に掲載されたバーンスタインのエッセイに感銘を受ける。彼がゲスト出演したレコードを聴いたことから虜になり、ファンレターを投函。それから一年以上たったある日、なんとバーンスタインから返信が届き、書簡のやりとりが始まる。
和子は敬意と親愛をこめた手紙を送りつづけ、一方でバーンスタインも指揮者、作曲家として大スターの座へと駆け上がっていく。彼女はその後築いた家族にも彼の音楽を聴かせつづけて熱心なファンに育て、バーンスタインが来日の折には面会や会食などで交流を深め、やがて互いの家族を思いやるような関係となっていく。バーンスタインにいつも心を寄せ、ときめき、喜び、感性豊かに生きる和子。夫亡き後も自分らしく変化に富む生き方を歩む姿が書簡を通じて浮かび上がり、一人の女性のライフヒストリーとしても感慨深い。
そして二人目の日本人は「橋本邦彦」。来日したバーンスタインと出会い、親しい夜を過ごした翌日に出した恋文から書簡が始まる。一人の若き会社員は、バーンスタインへまっすぐに愛を伝える。橋本がしたためた美しく熱い恋文は、絶えず世界を飛び回るバーンスタインにいつ届くのか。時に切なく、熱い詩情と教養にあふれるその書簡は、出会ってから四週間のうちに二十通もあったという。そしてバーンスタインもまた、橋本に強くひかれ、二人の関係は深まっていく。
〈誰かと恋に落ちたくはない、なぜならそれは、自分の人生を変えてしまうから〉
これはバーンスタインが橋本と出会った日に語った言葉だ。愛にあふれ、世界中に彼を愛する人がいるにもかかわらず、橋本との恋に落ちていく感情を抑えきれなかったのだろう。その言葉はまるで予言のごとく、二人の人生の変化を招いていく。眠っていた感情がひらかれ、自分のセクシュアリティと向き合い、仕事も生活も新たに、自らを生かす場所を見つけていく橋本。やがて時を経て、彼はバーンスタインの仕事を支える存在となり、変わらぬ愛を注ぎながらも、ふたりの関係の色合いは少しずつ変化していく。
音楽と人をこよなく愛したバーンスタイン。まったく別の形で彼と特別な関係を築いた二人の日本人。彼らと音楽への敬意と愛を背景に、知られざる物語をまとめた著者の情熱は、極上の読書体験をもたらす一冊となった。
代官山 蔦屋書店 人文コンシェルジュ
代官山 蔦屋書店で哲学思想、心理、社会など人文書の選書展開、代官山 人文カフェやトークイベント企画などを行う。毎週水曜20:00にポッドキャスト「代官山ブックトラック」を配信中。
文/宮台由美子 編集/国分美由紀