宮地尚子 傷を愛せるか ちくま文庫

『傷を愛せるか 増補新版』
宮地尚子 ¥792/ちくま文庫

宮地尚子『傷を愛せるか 増補新版』に記された、エンパワメントのかたち

幼い子どもは道端でよく転び、すぐに泣く。あるいは、どこかにぶつかって、少しだけ赤くなった小さな指先を見せに来て「ぶつけた」「痛い」と訴えてくる。こちらは「大丈夫?」とかたずねて、ささやかな手当をするだけだ。でもそうして納得すると、子どもは何事もなかったかのように自分の世界へとかけて行く。やがて成長してくると実際に転ぶことも減り、転んだり、どこかにぶつけたり、見えない傷を作っても、誰に伝えることもなく自分で立ち上がるようになる。

でも、本当はどんなに成長して大人になっても傷の大小なんて気にせず、涙を流すことがあっていいし、その痛みをなかったことにしなくていい。自分で手当てができなければ、誰かに「痛い」と訴えてもいい。全部抱え込んで平気そうにしなくてもいいのだと、この本を読んでホロホロと胸のこわばりが解けていくのを感じた。

トラウマ研究の第一人者である宮地尚子さんの『傷を愛せるか』は、旅、仕事、研究、家族のこと、映画、アートなどを通して、たゆたうように思索をめぐらせた、とっておきのエッセイだ。

ある時、バリの寺院を訪れ若い男性と知り合う。話を聞いているうちに僧侶階級出身の彼が自分のために祈ってくれることになった。その時の風景、穏やかな横顔。純粋に心から自分の幸せを願ってもらうことの有り難さとともに、著者は「エンパワメント」についてこう考える。

「『エンパワメント』とは、その人が本来もっている力を思い出し、よみがえらせ、発揮することであって、だれかが外から力を与えることではない。けれども忘れていた力を思い出し、自分をもう一度信じてみるためには、周囲の人びととのつながりが欠かせない。(中略)自分の幸せを祈ってくれる『だれか』がかならず必要である。」

心に深く傷を抱えた人と臨床現場で向き合う著者は、バリの寺院で祈ってくれた彼を思い出しながら、目の前の被害者に対して、「幸せになりますように」と願う。そして願うだけではなく、「幸せ」を遠くに感じたり、幸せになってはいけないと思い込んでいたりする人に向けて、過去の呪縛から解き放ち、未来を捕捉する言葉として「あなたはいつかきっと幸せになれると思うよ」と予言し、「あなたが幸せになっていくのを、わたしは見守っているよ」と約束の言葉をかける。

〈明日、天気になあれ。みんな、幸せになあれ。そう思い、そうつぶやく。そう囁き、そう歌う〉

人生は、晴れた穏やかな日ばかりではない。土砂降りにあたってしまうようなこともある。わたしもそんな出来事をこの一年の間に経験した。大丈夫、痛くないと気を張って過ごしていたら、いつのまにか日常に戻れていたはずだった。でもしばらく経って仕事でお世話になっている人と話していたら、その時の私を思い涙を流してくれた。「なんで泣いているんだろう」と彼女は言っていたけれど、私はその涙が「祈り」なのだと思った。自分も一緒になって泣いて、そのあと二人で笑った。

「エンパワメント」ってこういうことなのだろう。あなたを思う、と伝えられて、ささやかな手当をしてくれる誰かがいたら、またかけ出して行ける。だからわたしも「明日、天気になあれ。みんな、幸せになあれ。」とつぶやく。だれかの幸せを願い今日もまた、本を届けに行こう。

宮台由美子

代官山 蔦屋書店 人文コンシェルジュ

宮台由美子

代官山 蔦屋書店で哲学思想、心理、社会など人文書の選書展開、代官山 人文カフェやトークイベント企画などを行う。毎週水曜20:00にポッドキャスト「代官山ブックトラック」を配信中。

文/宮台由美子 編集/国分美由紀