数々のメディアで執筆するライターの今祥枝さん。本連載「映画というグレー」では、正解や不正解では語れない、多様な考えが込められた映画を読み解きます。第6回は、ポーランドとベラルーシの国境地帯で起きた難民危機を描く『人間の境界』です。

今 祥枝

映画・海外ドラマ 著述業 ライター、編集者

今 祥枝

『BAILA』『クーリエ・ジャポン』『日経エンタテインメント!』ほかで、映画・ドラマのレビューやコラムを執筆。ゴールデングローブ賞国際投票者。編集協力『幻に終わった傑作映画たち』ほか。イラスト/itabamoe

ポーランドの名匠アグニエシュカ・ホランドが国家のタブーに切り込む

映画 人間の境界 国境で身動きが取れなくなる難民の子供の写真

母国での過酷な現実を生き抜き、命がけでベラルーシへやってきたシリア人一家。しかし、ベラルーシからもポーランドからも迫害されて、暗く深い森を恐怖と絶望に満ちた状況でさまようことに……。

2022年2月24日にロシアがウクライナに侵攻してから、丸2年が過ぎた。

3月10日に授賞式が開催された第96回アカデミー賞の長編ドキュメンタリー部門では、ウクライナ東部ドネツク州の都市マリウポリが壊滅するまでの20日間を記録した『マリウポリの20日間』(4月26日、劇場公開)が受賞した。誰もがウクライナ情勢について心を痛めていることは確かだろうが、映画を観ると、改めて自分がこの危機に慣れてしまっていることに気づかされる。

皮肉にもウクライナ映画史上初のオスカー受賞作となったが、監督が受賞スピーチで「この映画を作ることがなければよかったのに」と語った言葉が忘れられない。2023年10月にはハマスがイスラエルに越境攻撃を行ったことを機に、イスラエル軍によるガザへの侵攻が始まった。ガザ地区の惨状は、これが現実に起きていることなのかと直視することも困難な情報が日々流れてくる。

取りも直さず、シリア内戦ほかニュースで取り上げられることが少なくなっているだけで、世界中のいたるところで危機的状況が続いている。だからこそ、映画という一般の人が親しみやすいアートフォームで、今この瞬間にも命を脅かされている人々の窮状を知らしめることには、とてつもなく大きな意義がある。

ポーランドとベラルーシの国境付近で起きている難民危機を描いた『人間の境界』も、そうした力強い作品のひとつだ。

監督は、ドイツ占領下のポーランドでユダヤ人を匿った男を描く『ソハの地下水道』のほか、3度のアカデミー賞ノミネート歴を持つポーランドの名匠アグニエシュカ・ホランド。70代に入った今も、国家のタブーに切り込む気概は健在だ。そして、世界で起きているあらゆる戦争や紛争が地続きであることを、これほど切実かつ痛烈に伝える映画もないだろう。

映画 人間の境界 ポーランドとベラルーシの国境地域に閉じ込められてしまう難民たちの写真

ポーランドとベラルーシの国境沿いの難民戦争は、ユネスコ世界遺産(自然遺産)として知られる「ビャウォヴィエジャの森」の数10キロ北の国境地帯で起きた。両国からの強制移送が繰り返される中で、老若男女が命を落とした。

ポーランドとベラルーシの国境地帯に閉じ込められてしまう難民たち

映画 人間の境界 難民を助けようとしたことで警察の取り調べを受ける精神科医ユリアの写真

難民たちの窮状を目の当たりにしたポーランドの地元民の精神科医ユリアは、政府の彼らへの非情な扱いに愕然とする。難民に医療やアドバイスを提供する支援団体に参加するが、国境近くの立入禁止区域に近づくだけで自らの身にも危険が及ぶ。

映画はベラルーシ行きの飛行機の機内から始まる。

この便には、「ベラルーシを経由してポーランド国境を渡れば、安全にヨーロッパに入ることができる」という情報を信じた人々が乗っている。シリア人の家族もいれば、アフガニスタン出身の女性もいる。言語も文化も異なる人々が、何とか生き延びて国を後にし、一縷の希望を持ってベラルーシに降り立つ。

彼らはタクシーでポーランドを目指すが、突然ベラルーシの兵士たちに車を止められ、乱暴に追い立てられて国境地帯の深い森の中へ。恐怖に怯えながらも、どうにかポーランド側へ越境して安堵したのも束の間、今度はポーランド国境警備隊に捕えられ、他国からの難民たちと一緒にトラックに詰め込まれて、強制的にベラルーシ側に送り返されてしまう。

驚くことに、この非人道的な残虐行為は何度も繰り返される。兵士からも警備隊からも暴力を振るわれ、持ち物は奪われ、食料はなく水さえも手に入らない。真っ暗な森の緩衝地帯(ノーマンズ・ランド)に閉じ込められてしまった彼らを襲う恐怖と絶望は、いかばかりだっただろうか。

映画は、「ふたつの国の間でボールのように蹴り合われた」難民が直面する過酷な現実と、ポーランドの国境警備隊とそれらを支持する地元の人々と、難民の窮状に無関心ではいられず、命懸けで支援活動を行おうとする人々の、それぞれの視点から事態の推移を映し出す。

「人間の武器」として意図的に引き起こされた難民危機が暴く欺瞞

映画 人間の境界 難民を力づくでベラルーシに送り返すポーランドの国境警備隊の写真

ベラルーシから越境してくる難民たちを押し返す任務につくポーランドの国境警備隊の警備兵ヤンは、妊婦の難民の姿に自身の妊娠中の妻を重ねて葛藤する。やがて、難民たちを同じ人間として扱わない同僚たちの残酷な振る舞いに、神経をすり減らしていく。

この「難民の押し戻し(Pushback)」は、ベラルーシの独裁者ルカシェンコが難民を「人間の武器」として意図的に引き起こした難民危機だ。背後にはロシアのプーチンがいると考えられるこの戦略が、どれほど卑劣であるか。

そもそも、なぜこれほど多くの難民がベラルーシに向かったかといえば、ベラルーシ政府が中東各地に「ベラルーシからポーランドほかEU域内に移住できる」という情報を流したから。アフガニスタンやシリア難民のためにビザの有効期間72時間のツアーを企画し、ベラルーシにやってきた難民たちを「人間の武器」としてEU諸国の状況を不安定化させるために国境に送り込む。

押し寄せる難民に危機感を抱いたポーランド政府は、2021年9月にベラルーシ国境付近に非常事態宣言を発令した。ベラルーシから移送される難民の受け入れを拒否し、強制的に送り返し、さらにジャーナリストや医師、人道支援団体らの立ち入りさえも禁止した。警備隊の上官が兵士たちに向けて「連中(難民)はプーチンとルカシェンコの武器。人間ではなく生ける銃弾だ」と難民を平然と非人間化する言葉は、にわかに信じ難い。

監督のホランドは命がけで、この地域の近くでの撮影を試みた。ポーランド政府にとって“都合の悪い真実”を描く本作は、さまざまな妨害工作にもあったが、映画が公開された後は多くの人々に支持され、国際的にも高い評価を得た。

難民の問題は今や世界的な喫緊の課題であり、常に論争の的だ。しかし、この映画では”事実”を伝えることの重要性もさることながら、映画ならではの構成でウクライナからポーランドへ逃れてくる人々への対応と対比させることで、観客に対して大きな問いかけがなされる。ニュースなどで知る難民の窮状を憂いながらも、実際に目の前にその問題が持ち上がったときに、どう行動するか。そして、同情するべき難民、救助されるべき難民と、そうでない難民という区別、判断はどこから来るのか?

ホランド監督が本作で糾弾しているのが、第一に政治家であることに疑問の余地はない。同時に、今まさに危険にさらされている人々の存在に無関心でいる社会、「私たちの姿」を客観的にスクリーンに映し出すことで、間違った指導者に対して盲目的に従うことへの危惧と、多くの人が無自覚に陥る可能性のある加害性について警鐘を鳴らす。

映画 人間の境界 国境で警備隊と難民の少女が向き合うポスターの写真

1948年、ポーランド・ワルシャワ生まれのアグニエシュカ・ホランド監督は、『ヨーロッパ ヨーロッパ〜僕を愛したふたつの国〜』や『ソハの地下水道』などでアカデミー賞に3度ノミネートされている。そのほか、レオナルド・ディカプリオ主演の『太陽と月に背いて』など、幅広い作品で高く評価されている現代の名匠だ。

『人間の境界』5月3日(金•祝)TOHOシネマズ シャンテほか全国ロードショー

監督:アグニエシュカ・ホランド
出演:ジャラル・アルタウィル、マヤ・オスタシェフカほか
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取材•文/今 祥枝