禅の世界や仏教の教えを内包した禅の言葉たちには、現代を生きる私たちの心を軽くしてくれるヒントが詰まったものがたくさん! 臨済宗龍雲寺住職・細川晋輔さんに、メンタルに効く“禅ワード”(禅語)について聞くシリーズ。今回の「執着(しゅうじゃく)」に効く“禅ワード”は、細川さん大のおすすめの言葉だそう。

細川晋輔

龍雲寺住職

細川晋輔

1979年東京生まれ。東京都世田谷区、臨済宗龍雲寺住職。佛教大学卒業後、京都の臨済宗妙心寺の専門道場にて九年間の修行。2013年に龍雲寺住職に。著書に『禅の言葉とジブリ』(徳間書店)、『迷いが消える禅のひとこと』(サンマーク出版)等。

執着に効く“禅ワード”(禅語)は…「手放没深泉、十万光皓潔(手を放てば深泉に没す、十方、光皓潔たり)」

禅ワード 禅語 手放没深泉、十万光皓潔

「手放没深泉、十万光皓潔(手を放てば深泉に没す、十方、光皓潔たり)」の意味は?
読み方は「てをはなてばしんせんにぼっす、じっぽう、ひかりこうけつたり」。
手を離したら深い泉に落ちてしまうけれども、周りは光に満ちあふれる。

水面に映る月は本物か? 手放せない枝は本当に必要か?

臨済宗龍雲寺住職・細川晋輔さん 禅ワード 禅語 手放没深泉、十万光皓潔

細川さん:意味を読んでも「?」と感じる方が多いと思いますので、この言葉が書かれている白隠禅師絵を見ていただきたいです。これは、お猿さんが左手で枝をしっかりとつかみながら、右手で水面に映る月を取ろうとしているところです。

水面の中の月は、もちろん本物ではなく、得ることはできません。この絵では人間がどうしても抱いてしまう雑念や妄想を、水に映る月に例えて、それを真理ととらえて求めてしまう……ということを指しています。

そして、このときに枝として持っているものは「本当にしっかりとつかんでおかなければならないものなのか」ということも、この禅語は問うています。

一見大事そうに見える枝ですが、このお猿さんが、もし思いきって手を離せばどうなるでしょうか。湖に落ちてしまい、月は偽物だったということが判明します。しかし、それは悪いことではありません。

水面から顔を出せば空に本物の月があることがわかる。そしてその光が周りに満ちていたことにも気づけるのです。

目の前にある“真理”は偽物かもしれない。迷って前に進めないときは思いきって手放す。もし手放して得られるものが間違いであっても、学びや進歩、成長がある。さまざまなことを教えてくれる禅語です。

手放して、今の自分に合う形でまた持ち直してもいい

臨済宗龍雲寺住職・細川晋輔さん 読経 禅ワード 禅語 手放没深泉、十万光皓潔

細川さん何かにとらわれて身動きができないときに響く言葉だと思います。

枝にしがみつき続けることによって、目に見える月にも飛びつけず、その月が真実でないことにも気づけず、実は空に本物の月があることにも気づけない。枝に「執着」してしまっているのです。

ここで言う“枝”は過去の成功体験や栄光かもしれません。今までのやり方を変えるべきなのに、新しいことにチャレンジするべきなのに、自分の知識や経験にしばられて、踏み出せないことは珍しいことではないですよね。

また、恋愛の場面でもよくあります。情で別れられない恋人や、別れたけれど忘れられない人など……。本当は手放して前に進むべきなのに、しがみついてしまっている関係性もあるでしょう。

そういう「進むことを邪魔する枝」を、ついつかみ続けてしまっている人が、この言葉を見て「手放す」にチャレンジできるといいな、と思います。執着を少し手放すことによって、幸せになれると私たちは信じているからです。

もちろん、「手放していけないもの」もあるので、今大切にしている「枝」を思いきって手放すのは勇気が必要です。でも、もし手放したあと「手放してはいけなかった」と気づいたなら、またつかめばいいのです。「つかんでいてもよい枝だった」とわかることも、また進歩のひとつです。

また、「一度手放して、持ち直す」ことで、今の自分にあった捕まり方ができるようになることもあります。手放したものは捨てなければならないわけではない、ということも知っておいていただければうれしいです。

撮影/干田哲平 画像デザイン/前原悠花 取材・文/東美希 企画・構成/木村美紀(yoi)