今週のエンパワメントワード「誰でも船は出せる」ー『海が走るエンドロール』より_1

海が走るエンドロール』たらちねジョン ¥660/秋田書店(ボニータ・コミックス)

その言葉は、生き方を変える力になる

夫を亡くしたばかりの「うみ子」は、一人暮らしの65歳。ある日、ひょんなことから、数十年ぶりに映画館へと足を運んだ。席に着いた彼女はふと、かつてのデートを思い出す。鑑賞中、周囲を気にするうみ子を見た夫は、微笑みながらこう言った。「貴女は映画が好きなのではなく 映画を観てる人が好きなんですね」。そして、懐かしい記憶と共に席を振り返った彼女は、一人の若者と目が合った──。

こんな二人の出会いから始まる本作は、『月刊ミステリーボニータ』(秋田書店)にて連載されている。今夏に発売された第1巻は直後から話題となり、すぐに重版が決まった。在庫が回復した現在では、「一推し」タイトルとしてさまざまな書店で展開されている。

ところで私たちはいつ、自分の秘かな望みに気づくのだろう。もし気づいたとして、その時、きちんと向き合うことができるだろうか。忙しい日々の中、夢を夢のまま終わらせることも、言い訳をしながらそっと封じることも多くある。それでも、その願いを形にしてくれる人と出会い、次の一歩を踏み出せるチャンスが巡ってきたとするならば。はたして、どんな道を選ぶだろう。


その後、うみ子は必要にかられ、映画館で目が合った若者を自宅へと招くことになる。そして彼が、美大の映像科に通う学生・「海(カイ)」だと知る。うみ子と同じく、彼もまた“映画館で客席を観る側”の人間だからこそ、彼女の願いをさらりと見抜く。自分のように、うみ子は映画を「作りたい」側にいるのではないか、と。

海の言葉は波のように、うみ子の心を揺らす。作中ではその揺らぎが、うみ子の足元や瞳の中に無数の波として描かれている。それは何度も強く打ち寄せ、彼女の日常を激しくぐらつかせるが、同時に、またとない導きともなっていく。

自分を変えるには勇気がいる。それはいくつになっても同じこと。歳を重ねても、いやむしろ重ねたからこそ、うみ子は迷い、考える。「こんなおばさんが」「日常にこれ以上波を立てては」──それでも彼女が「映画を作りたい」と思い始めた自分と向き合い、海の通う美大への入学を決意したのには、家族の存在もあった。BL作家をしながら子育てに励み、スマホ越しに母を見守る娘の言葉。そして、長く共に映画鑑賞を楽しんだ夫との思い出。慈しんできた過去の先に生まれた今が、うみ子を次の物語へと送り出すのだ。

そうして学生となったうみ子は、海が抱える後悔に寄り添いながら「誰でも船は出せる」と語りかける。「映画を作る」という未知へと漕ぎ出した彼女の言葉は、海の心に強く響いた。それは気づかぬうちに送り合った時間差のエールであり、お互いの一言が人生を変えていく瞬間でもあった。まるで誰かに押された背中が、めぐりめぐって、今度は別の誰かを押す手のひらになったかのように。

ちなみにうみ子が作る食事の描写も、私にとっては楽しみのひとつ。仏壇にお供えをするシーンに始まり、うっかり炭と化したナスの味噌焼きも、海のために用意した栗ごはんも、彼女が大事にしてきた日々を軽やかに映し出す。湯気が立ち上る料理の数々はどれも美味しそうで、眺めているだけでもついほっこりしてしまう。手間暇惜しまず用意された食卓は、彼女と誰かを確かにつなぐ、とっておきのひと時なのだ。

田中香織

女性マンガ家マネジメント会社広報

田中香織

元書店員。在職中より、マンガ大賞の設立・運営を行なってきた。現在は女性漫画家・クリエイターのマネジメント会社であるスピカワークスの広報として働きながら、小さな書店でもアルバイト中。

文/田中香織 編集/国分美由紀