衝撃的な生理用品の歴史をまとめた『生理用品の社会史』の著者、田中ひかるさん。現在は当然のようにある生理用ナプキンが誕生したのは、わずか60年前のこと。月経禁忌にまつわる驚きの慣習や、使い捨てナプキンがもたらした変化、フェムテックブーム、これから目指すべきゴールまで生理用品の歴史についてお伺いしました。
歴史社会学者
1970年、東京都生まれ。女性に関するテーマを中心に、執筆・講演活動を行う。著書に『明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語』(中央公論新社)、『生理用品の社会史』(角川ソフィア文庫)、『「毒婦」和歌山カレー事件20年目の真実』(ビジネス社)、『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中央公論新社)などがある。
- 昔は経血の処置、どうしてた?現代では当たり前の「生理用ナプキン」が登場するまで
- 昔は、植物や麻、繊維を股に当てて経血を処置
- 平安〜江戸時代…日本最古の医術書に経血処置用品が登場。布や紙、綿などが使われていた
- 明治時代…「衛生帯」「ゴム製猿股式月経帯」などの月経帯が発売される
- 大正時代…『ビクトリヤ』を皮切りに、ベルト式の生理用品が次々と発売される
- 昭和初期…洋装化が進み、ショーツ型の生理用品がメジャーに
- 昭和中期…終戦によって月経帯の進化が再開
- 1961年、ついに使い捨てナプキンが誕生
- 生理用品の歴史は、女性の社会進出の歴史だった!月経が“禁忌”から“当たり前”になるまで
- 「タブー」の語源は、実はポリネシア語の月経?
- 日本における月経禁忌の歴史は?
- 生理用品の進化を阻んだ月経不浄視
- 明治時代の生涯月経数は50回ほどだった!
- 「アンネ」と呼ぶことで、月経を話題に出しやすくなった
- 快適な生理用品が女性の社会進出を後押しした
- 生理用品史の研究者がフェムテックブームの社会的背景を分析。本当のゴールとは?
- 近い将来、「生理をなくす」という選択肢がもっと一般的に?
- フェムテックブームは、今後どう展開していく?
- フェムテックブームが「生理の貧困」対策への追い風になることを願って
昔は経血の処置、どうしてた?現代では当たり前の「生理用ナプキン」が登場するまで
昔は、植物や麻、繊維を股に当てて経血を処置
——昔の人々は、どのようにして経血を処置していたのでしょうか?
田中先生:人類がいつ頃から、どのような理由で経血を処置しようと考えるようになったのかは不明ですが、布や紙が発明される以前は、植物の葉や繊維を使っていたと考えられます。律令時代には、麻布や葛布の切れ端が主に使われていたのではないでしょうか。
平安〜江戸時代…日本最古の医術書に経血処置用品が登場。布や紙、綿などが使われていた
——いわゆる生理用品のようなものは、いつ登場したのでしょう?
田中先生:絹が大陸から伝わり、貴族は、絹を袋状に縫い合わせ、その中に真綿を入れたものをナプキンのように当てていたそうです。一方庶民は、細長い布をふんどしのように縫い合わせた丁字帯のようなものを使っていたと考えられます。
田中先生:製紙法が日本に伝えられたのは7世紀初頭ですが、一般に普及したのは江戸時代以降になります。漉きかえした粗末な紙や綿を腟に詰めたり当てたりした上から、木綿製の丁字帯で押さえていたようです。
——タンポンの原型のようなものに、下着をつけているような感じですね!
明治時代…「衛生帯」「ゴム製猿股式月経帯」などの月経帯が発売される
——明治維新が起こって、西洋の文化も多く流入するようになった明治時代。生理用品にも変化はありましたか?
田中先生:明治時代には、上流階級の女性を対象とした『婦人衛生雑誌』に、月経についての記事が多く掲載されます。その目的は、当時の国家目標だった“富国強兵”を達成するための母体の改善でした。月経は、国の富強を保つための重要な生理現象とみなされるようになったのです。
同誌では、経血処置に使う布や紙は、清潔でなければいけないと説かれています。また、直接腟内に紙や綿を挿入することは“子宮病”の原因となるため避けるように、とも記されていました。
清潔な脱脂綿が流通するようになった1901年には、医師の木下正中さんが監修し、日本で初めて製品化された月経帯が『衛生帯』という商品名で発売されています。欧米の製品を真似たもので、革のベルトの前後に平たいゴムを繋ぎ、ゴムの上に脱脂綿の吸収帯を敷いて装着する、丁字帯の進化バージョンといえる物でした。しかし、現在の価格でおよそ1万円前後ほどしたため、一部の女性しか買えなかったようです。
——当時は、販売されている生理用品はまだ特別なものだったんですね。
田中先生:そうですね。明治期には、「月の帯」や「ゴム製猿股式月経帯」などの広告が婦人雑誌に掲載されるようになりましたが、普及はしていません。
当時は、腟内へ直接挿入するタンポン式の処置法は、“子宮病”を引き起こすほか、性道徳上も望ましくないという考え方があり、「ゴム製猿股式月経帯」の広告にも「恐るべき自涜を防ぐ」という文言が記載されています。
大正時代…『ビクトリヤ』を皮切りに、ベルト式の生理用品が次々と発売される
——製品としての生理用品が登場しても、一般化するのには時間がかかったのでしょうか?
田中先生:明治末期の1910年ごろには、アメリカ製の月経帯『ビクトリヤ』が初めて輸入販売されました。しかし品薄だった上に、1円50銭という高価格で(当時の日雇い労働者の日当は56銭ほど)、これもあまり普及しなかったようですね。大正時代に入ると、ゴム製品を製造していた大和真太郎が『ビクトリヤ』の製造を開始。アメリカ製の半額以下である70銭で販売したことで、人気となりました。
——半額になったとしても、当時の価値としてはお高めですね。
田中先生:そうですね。『ビクトリヤ』を皮切りに、腰に巻いたベルトに吸水帯を吊るすベルト式の月経帯がメジャーになり、『安全帯』や『プロテクター』、『婦人保護帯』、『カチューシャバンド』といった商品が続々と登場しましたが、それでも当時、これらを購入できるのは一部の富裕層でした。布や脱脂綿などをタンポンのように詰めるだけの女性が多かったのです。
昭和初期…洋装化が進み、ショーツ型の生理用品がメジャーに
——大正から昭和は、人々の服装が大きく変わった時代ですよね。生理用品も、それに伴い変化したのでしょうか?
田中先生:はい。女性の洋装化が進むにつれ、腰巻に代わってズロース(=ショーツ)が用いられるようになり、それに伴って、ベルト式が主流だった月経帯も徐々にズロース型へと変わっていきました。1930年代後半には、当時、最も人気があったと思われる『ビクトリヤ』や『フレンド』も、従来のベルト式に加えてズロース型を販売するようになっています。
1938年には、既製品のタンポン第一号『さんぽん』が誕生。脱脂綿を圧縮した砲弾型で、20mlの経血が吸収できたそうです。しかし、東京女子医科大学創設者である吉岡彌生さんの「女の神聖なところに男以外のものを入れるとは何事ぞ」という言葉に象徴されるように、タンポン反対派による医師たちの猛反発を受けました。さらに日中戦争によって脱脂綿が品薄となり、販売中止に至ります。
昭和中期…終戦によって月経帯の進化が再開
——戦争による物資の不足は、生理用品にも影響していたのですね。
田中先生:非常に大きな影響を受けました。戦後、1951年に脱脂綿の配給制が解除されると、再びさまざまなタイプの月経帯が発売されるようになりました。布製のショーツの股の部分にゴムが貼ってあるタイプが最も一般的で、汚れが目立たないという理由からか、色は黒に限られていました。しかしこれらには、蒸れる、肌触りが悪く湿疹やかぶれを起こす、ゴムに乗せた脱脂綿が移動して経血が漏れるといった欠点がありました。
1961年、ついに使い捨てナプキンが誕生
——今私たちが使っているような生理用ナプキンは、いつ登場したのでしょう?
田中先生:使い捨て生理用ナプキンを発売したのは、当時27歳の坂井泰子さんです。
日本女子大学を卒業後、すぐに結婚し、数年は専業主婦をしていた泰子さんは、次第に仕事をしたいと思うようになります。そんなときに「日本の特許出願件数は世界一だが、事業化されることが少ないため、優秀な考案でも埋もれてしまうことが多い」という新聞記事を目にし、発明家と企業の仲介をする仕事を始めました。
こうして寄せられた考案のなかに、「経血処置に使った脱脂綿が水洗トイレに詰まらないように、排水溝に網を張る」という考案がありました。それを見た泰子さんは、水に流せる生理用品を作ればいいのではないかと考えました。そうして誕生したのが、水洗トイレに流せる紙綿製の『アンネナプキン』でした。現在普及している使い捨てナプキンの原型と言えるでしょう。
『アンネナプキン』は、「40年間お待たせしました!」のセンセーショナルな広告や、菓子箱のようなパッケージが女性たちの心をつかみ、大ヒット商品となります。続いて、「ユニ・チャーム」や「花王」が生理用品市場に参入しました。生理用ナプキンを製造するための技術が発展することで、赤ちゃん用のおむつも改良されました。女性の社会進出に伴い、市場はますます拡大。各社がしのぎを削り、より快適な商品が次々と発売されるようになりました。
1993年に「アンネ社」は他社に吸収合併されてしまいますが、坂井泰子さんの「女性の生活をもっと便利に快適に」という思いは、今日の生理用品にも受け継がれていると思います。
生理用品の歴史は、女性の社会進出の歴史だった!月経が“禁忌”から“当たり前”になるまで
「タブー」の語源は、実はポリネシア語の月経?
——月経は、古くから世界各地で「穢れ(けがれ)」とされてきたことが田中先生の著書『生理用品の社会史』では明かされています。なぜ、人々から忌み嫌われるようになったのでしょうか。
田中先生:現代でも使われる「タブー」という言葉の語源は、ポリネシア語で月経を意味する「タブ(tabuまたはtapu)」と言われています。月経や経血に対する「タブー視」「不浄視」、言い換えると「月経禁忌」は、世界各地で見られます。
月経がタブーとされるようになった起源については、畏怖心の裏返しだとか、経血が病気を媒介することから危険視されるようになったとか、諸説あります。
——月経禁忌にともない、さまざまな慣習が作られたそうですね。
田中先生:月経禁忌にともなう慣習は、つい最近まで世界各地に存在しており、現在もそうした慣習が見られる地域があります。例えば、ネパールの一部地域では、月経中の女性は穴ぐらや小屋に隔離されます。その間に猛獣に襲われた女性や、蛇にかまれて亡くなった女性もいます。暖をとるために火を焚き、煙を吸って亡くなる事件も何度も起きたため、法律で禁止されましたが、長い間の慣習は根強く残っています。こうした地域では、生理用品が普及していません。月経中は学校へ行けないという地域も世界各地にあります。
日本における月経禁忌の歴史は?
——日本においては、月経禁忌はどのように広まったのでしょうか。
田中先生:歴史学者の成清弘和さんや藤田きみゑさんの研究に見られるように、日本における月経禁忌は、権力者が案出、もしくは大陸から移入したのではないかという説が有力です。その後、室町時代に大陸から伝来した「血盆経(けつぼんきょう)」によって月経不浄視が一般社会に広まりました。血盆経とは、10世紀ごろに中国で成立した偽経です。女性は月経や出産の際に経血で地神や水神を穢すため、死後は血の池地獄に堕ちるが、血盆経を信仰すれば救われる、と説かれました。
血盆経は、江戸時代には女性信者の獲得を目的として、唱導が行われました。近代以降も、血盆教信仰の強かった地域で、より多くの月経禁忌に伴う慣習が確認されています。
生理用品の進化を阻んだ月経不浄視
——月経禁忌が薄れ始めたのは、いつ頃だったのでしょうか。また、そのきっかけは?
田中先生:明治時代に入ると、月経は“富国強兵”を実現するための重要な生理現象と見なされるようになります。月経不浄視は月経を管理することの妨げとなっていたため、当時の医師たちは、月経禁忌の払拭に努めました。
しかし、1000年以上も続いた月経不浄視は、人々の生活に根強く残りました。大正時代に初経を迎えたある女性は、母親や姉とも月経の話をしたことがなく、経血処置の方法も教わったことがなかったそうです。さらに、経血処置用品は「不浄なものだからお日様にあててはいけない」ため洗濯後は物置きに干していた、などの体験談は枚挙にいとまがありません。
経血処置用品は隠すべきもの、月経は“シモのこと”という認識はその後も続き、女性たちの「もっと快適な処置用品を使いたい」という思いを封じ込めていました。生理用品の進化、そして女性の社会進出を阻む、大きな要因であったと言えるでしょう。
明治時代の生涯月経数は50回ほどだった!
——日本では、大正時代の1920年ごろから、生理休暇獲得運動が始まりました。生理中の女性の体を労わるための制度を求める一方で、生理のタブー視が続いていたのは、とても不思議な現象のように感じます。
田中先生:当時は、現代のような生理用品がなかった上に、鎮痛剤も女性用トイレもありませんでした。そのような環境で、女性教師や「看護婦」たちが生理休暇を切実に求めたのは当然でした。
ところで、妊娠・出産を繰り返していた女性たちの月経回数が現代ほど多くなかったということも、生理用品が長い間、進化しなかった理由のひとつです。あくまで平均値での比較となりますが、明治時代の女性は、初経は現代女性より遅く、閉経は早かった。子どもの数を5人とした場合、現代よりも長かった「授乳性無月経」の期間を考慮すると、生涯の月経回数は50回程度だったと言われています。
「アンネ」と呼ぶことで、月経を話題に出しやすくなった
——戦後まで経血処置用品は月経帯などと呼ばれていましたが、月経の代わりに生理という言葉が使用されるようになったのは、いつ頃でしょうか。
田中先生:「生理」という言葉が用いられるようになったのは、労働基準法に「生理休暇」が規定されていたからだという説がありますが、間違いです。生理休暇獲得運動が始まった1920年代にはすでに使われていました。
その後も長らく「生理」という言葉すら憚られる時代が続きましたが、1961年に初めて使い捨て生理ナプキンを発売したアンネ社に、ユーザーから「生理をアンネの日と呼んでいる」というお手紙があったそうです。アンネ社がそれをキャッチコピーとして採用したことから、「アンネ」は月経の代名詞として広く使われるようになりました。月経を「アンネ」と呼べるようになったことで、女性同士でも月経について話をしやすくなり、恥ずかしいことという感情も薄れていきました。
今日「アンネ」は死語となりましたが、「アンネ」と口に出して言えるようになったからこそ、「生理」と自然に口にできる時代が訪れたのだと思います。
快適な生理用品が女性の社会進出を後押しした
——生理に対する女性の意識が変わったことで、女性の生活はどのように変化したのでしょうか。
田中先生:アンネ社の急成長は、それまで停滞していた生理用品市場を刺激し、5年後には後続会社が300社以上にのぼりました。後続会社のひとつ、ユニ・チャーム社が1979年のナプキンの広告で起用した俳優の松島トモ子さんは、生理用品の性能がよくなったことで、長時間の仕事もしやすくなったと語っています。
広告なので多少の誇張はあるかもしれませんが、ナプキンの性能向上が、女性を家庭から職場へと後押しし、すでに働いていた女性たちには安心感と積極性を与えたことは間違いありません。また、1947年に労働基準法に定められた生理休暇が徐々に形骸化した背景にも、生理用品の進化があったと言えるでしょう。
女性の活躍を後押ししたのは、法律や制度のおかげだと思われがちですが、それだけではありません。高度経済成長期の女性の社会進出を促したのは、生理用ナプキンの登場です。あまり顧みられませんが、女性の社会進出を陰で支えてきたのが、生理用品なのです。
生理用品史の研究者がフェムテックブームの社会的背景を分析。本当のゴールとは?
——フェムテック元年と言われる2020年から、生理用品の選択肢が増えました。そもそも、なぜフェムテックブームは起きたのでしょうか?
田中先生:欧米諸国のフェムテックブームが、一足遅れで日本に入ってきました。国や自治体が中心となり、その推進に力を入れていることも大きいと思います。そもそも人口の半分は女性ですから、そこには大きな市場があったのです。生理用品もフェムテックの一部ですが、例えば吸水ショーツはここ数年で愛用者がとても増えているようです。
『生理用品の社会史』の文庫版が発売された2019年のイベントで吸水ショーツを紹介した当時、まだ国産のものはありませんでした。ほどなくして国産のものが発売され、『ユニクロ』など大手メーカーも次々と参入しました。月経カップや月経ディスクも国産のものが発売され、手に入れやすい価格帯のものが増えました。
——当時すでに快適なナプキンがそろっていましたが、それ以外の生理用品を使う人が増えたのはなぜでしょうか?
田中先生:販売メーカーが増えたことによって、それまで高額だった吸水ショーツや月経カップなどが、リーズナブルに手に入るようになったからだと思います。月経カップを例に挙げると、日本ではフェムテックブームとともに広く知れ渡るようになりましたが8年ほど前までは日本製のものがなく、インターネットで販売されていた外国製のものは5000円前後しました。
実際に便利かどうかもわからない生理用品に5000円を払うのは、もったいない気がします。でも今は、品質のよい製品を数千円で買うことができますし、お試し用の廉価なものもあります。
近い将来、「生理をなくす」という選択肢がもっと一般的に?
——現在は、かなり多くのメーカーが吸水ショーツを販売するなど、フェムテックブーム以前と比べて生理用品の選択肢が増えました。2024年の現状について、田中さんの解釈を教えてください。
田中先生:現在も、生理用品としてナプキンを使用している方が最も多いです。日本はもともとタンポンの使用率が低いので、そこから月経カップへ至るのはハードルが高いということもあり、カップやディスクを使っている方は少ないです。吸水ショーツについてもそうですが、情報が少ないということもあるでしょう。
意外と若い人のタンポン使用率が低いのですが、その理由として、ナプキンの性能がよいので必要ないということや、教育現場で、生理のときは無理をせず、水泳授業の欠席を認めるということが当たり前になりつつあるということが挙げられます。
——ちなみに、低用量ピルやミレーナ®※などの浸透率はいかがですか?
田中先生:低用量ピルやミレーナ®で、生理をコントロールする人は、年々増えていますね。「生理をコントロールすることは自然の摂理に反している」という考え方もありますが、実は、現代の日本の女性たちの月経回数は、人類史上最も多く、むしろ不自然だとも言えます。
医学的に生理をコントロールすることについては意見が分かれますが、もし不調があるなら、まずは婦人科へ行って診察を受けるべきでしょう。
※子宮内に挿入する避妊器具。高い避妊効果に加えて、生理が軽くなる効果もある。効果は約5年続く。
フェムテックブームは、今後どう展開していく?
——田中さんの著書にも、ナプキンの開発後、その技術を用いたおむつの開発が進んだと書いてありました。少子高齢化が進み、生理用品の売上がますます減少するであろう今後、どのような商品が進化すると考えられますか?
田中先生:現在のフェムテックブームの中で、特に目立つのが、更年期世代を対象とした商品を扱う企業が激増していることです。それにともない、「生理」に続いて「更年期」についても語りやすくなってきたように感じます。女性が不調を我慢せず、口に出しやすくなったということは、とてもよいことですね。
——近年は男性向け生理セミナーを開催する企業が増えるなど、男性が生理について知ることも重要視されるようになってきています。それによって、社会の雰囲気や個々のパートナーシップは変化していると感じますか?
田中先生:男性に向けた生理セミナーの内容は、慎重に考えたほうがいい部分もあります。
例えば、生理痛を体験できる機械がありますが、そもそも生理のつらさは腹痛に限らず、気持ち悪さや頭痛、腰痛など、さまざまです。生理痛がまったくない人もいれば、生理前の方が調子が悪い人もいます。そもそも、誰かのつらさを身をもって経験しないと、思いやりをもてないというのは、おかしいです。
それよりも、生理による不調は個人差が大きいということや、医学的に解消する方法もあるということを伝えたり、生理痛に限らず体調の悪い人が休みをとりやすい環境を整えたりする方が、有益ではないでしょうか。
フェムテックブームが「生理の貧困」対策への追い風になることを願って
——フェムテックブームが続く一方で、近年では、生理の貧困が問題視されていますね。田中さんがこれからの社会に求める、生理用品のあり方や、生理用品に対する意識を教えてください。
田中先生:生理用品は進化し、生理自体もコントロールできる時代になりました。しかし経済的な理由やネグレクトで、生理用品を入手できない方も大勢いらっしゃいます。また、生理用品や生理の不調を解消する方法についての情報が得られずに苦しんでいる方もいらっしゃいます。
「生理の貧困」という概念が生理用品の不足だけでなく、生理にまつわるあらゆる問題を含んでいるととらえ、その解消を目指すことが大事です。フェムテックブームがその追い風になればよいと思います。
また、今日「フェムテック」と呼ばれるものは玉石混交です。女性たち自身が情報を精査し、玉なのか石なのかを判断していくことが肝要です。