自分とか、ないから。 教養としての東洋哲学』というインパクト大のタイトルで、話題になっている本の著者、しんめいPさんいわく、東洋哲学の目的は「とにかくラクになること」だという。今よりもずっと昔に理論立てられた東洋哲学を生かし、ストレス多き現代社会を少しでも心安らかに生きていくには? 東洋哲学を日常生活に落とし込むコツを教えてもらいました。

お話を伺ったのは…
しんめいP

東大卒・元芸人・作家

しんめいP

東京大学法学部卒業後、大手IT企業に入社するも退職。その後地方に移住し、教育事業をするも退職。一発逆転を狙って芸人として「R-1グランプリ」に出場するも1回戦で敗退し引退、無職に。同時に離婚も経験し、引きこもって布団の中にいたときに東洋哲学に出合い、衝撃を受ける。そのときの心情を綴った「note」が話題となり『自分とか、ないから。 教養としての東洋哲学』(サンクチュアリ出版)を出版。

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みんな“言葉の魔法”にかけられている!?

──2024年4月に上梓された、『自分とか、ないから。 教養としての東洋哲学』の中で、東洋哲学には「ラクになる」という目的があると書かれています。東洋哲学の考えを毎日の生活の中で取り入れ、心をラクにするコツはありますか?

しんめいP:インド仏教の僧侶、龍樹(りゅうじゅ)の「空」の哲学では、「この世界はすべてフィクション」といっています。これはどういうことかというと、この世界は言葉の魔法が生み出してる夢の世界、言ってしまえばディズニーランドと同じだということですね(笑)。

例えば、同じスイーツでも、パッケージに「北海道〜」とかが入っていると急に魅力があるように感じたりしませんか?

人間関係や家族もフィクション。同じ人でも「見知らぬ人」→「友達」→「恋人」と次々に変化したり実は実体がない。また、兄弟という概念も兄がいなければ弟はいないし、弟がいなければ兄もいない。つまり、互いの存在に依存して、言葉の魔法をかけあって、幻の世界を生み出しているというわけです。

そうやって考えるとあらゆるものが言葉の魔法によるフィクションということが腑に落ちてくるのではないでしょうか。

これらを踏まえ、僕が実生活で大事だと感じているのは「フィクションに溺れない」ということです。

ディズニーランドなら、お金を払ってきている夢の国=“フィクションの世界”と理解して楽しんでいるから、わざわざ排水溝とか建物の間とか見て「うわ、カビ生えている!」とか言わないし、外に出たらその魔法は自然と消えますよね。

でも、これが仕事や家族とかもう少しリアリティのある、感情が揺れ動く世界になったとき、「フィクションであることを忘れてしまう」ということが結構起きるんです。そうすると、「もうここからは出られないんじゃないか」みたいな思考回路に陥りやすい。外に出られないディズニーランドみたいな状況ですよね。

もちろんフィクション自体が悪いわけではなく、それを必要としているシーンもたくさんあります。でもどのフィクションを生きるかは僕たちが選べるんです。

──フィクションに溺れないための具体的なアドバイスはありますか?

例えば、目の前に“怖い上司”がいるとします。でも、「空」の哲学では“怖い”も“上司”もフィクション。もしその瞬間、本気でそう思えなかったとしても「本当はフィクションなんだよな〜」という目線を持つことが思い詰めないで済む方法な気がしています。

結局、会社も上司も、張りぼてでできているんですよ(笑)。オンライン会議でちらっと映った背景が汚いとか、食べ方が汚いとか、家では“普通のおじさん”っていうのが垣間見えるシーンがあったり。

どんな人にもちょいちょい“魔法が解ける瞬間”がある。それを見逃さず、あらゆるものはいざとなれば抜け出せるフィクションだと思うと、実生活でも気持ちがラクになると思いますよ。

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“自分らしさ”もしょせんはフィクションと思えばラクになる

──近年は、働き方や生き方も多様化し、以前と比較すると自分が選びたいフィクションを生きやすくなっているのかもしれません。いっぽうで、自由に選択できる分、自分がしたいことや自分軸に悩む人も増えている印象があります。

しんめいP:確かにそうですね。本のタイトルにもありますが、“自分”なんて本当はなくて、“自分らしさ”もやはり、フィクションに過ぎないんです。

僕たちの労働力って、仕事をするうえでの商品みたいなものですよね。そこで「自分が選ばれるために他の人と差別化するには?」ということを考え出すと、やっぱり“自分らしさ”みたいなところに行き着きやすい。

ただ、前提としてこうした資本主義的な空間は、発注者がいて、クライアントがいて、自分がいて…とバーチャルなものを想定したうえで成り立っているんです。

資本主義の中で「自分らしさ」といわれるものは「自分の商品価値」であり、それがそもそもフィクションであり、ゲームであり、ただのストーリーにしか過ぎないっていうことを忘れずにいるというのがやはり大事だと思います。

人生の選択に悩んだら、思考を緩めてみる

──みんなそれぞれのフィクション、ストーリーを生きていく中で、キャリア、人間関係、結婚、出産などいろんな選択に迫られるシーンがあります。こういったシチュエーションで役立つ東洋哲学的な考えはありますか?

しんめいP:まず、「チョイスするのは本当に自分なのか」と問うてみるのが面白いなと思っています。よく岩盤浴に行くんですが、僕自身がいろんな選択に迫られたときに行くと、いろいろ湧き上がってくる感情があるんです。

例えば、新しいA社から仕事の依頼がきて、受けるか迷っているとする。「どうしよう」という迷いの裏には、A社のメールの文面からくる何かにモヤっとしていたりするんですよね。それは普段、無視して生きているんですが、岩盤浴とかで油断した状態になると、無視していた感情がコンコンとノックしてくるみたいな感覚があるんです(笑)。

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それをちゃんと咀嚼していくと、「あの喋り方、上から目線だったよな」とか「昔、嫌だった先生に似てたな」みたいに、数珠つなぎでいろんな感情が出てきて。そうして、自分の中に蓄積していた湧いてくる感情に丁寧に、丁寧に、耳を傾け、消化していった結果、勝手に答えが出てるみたいな感覚。

すると、意思決定してるのが自分なのかって結構怪しくないですか?

頭で考えている世界が、いい意味で油断して、ぼやけて、脇に置いてた違和感とかが、ふと思考の合間を縫ってちゃんと出てきてくれる。その状態を作るのが僕の場合は岩盤浴なんですが、ヨガの人がいればランニングだったり、友達とのおしゃべりだったり、何でもいいと思います。

宿題みたいにたまっている、感じ取れていない感情や感覚を流れ作業のように掬い上げていくことで、いつの間にか行きたい方向が決まっている。選択する感覚すらない、みたいなのが自分なりに生きるコツなのかな、なんて思っています。

イラスト/Rei Kuriyagawa 構成・取材・文/長谷日向子