2003年に『蛇にピアス』でデビューしてから、およそ20年。社会の空気をとらえ、つねに「私たちの物語」を執筆し続けている金原ひとみさん。後編では、金原さんの価値観を変えたフランスでの暮らしや、「わからないこと」を無理に理解しようとせずに、わからないまま寄り添う姿勢について伺います。
2003年に『蛇にピアス』ですばる文学賞を受賞し、デビュー。翌年同作で芥川賞を受賞。2010年『TRIP TRAP』で織田作之助賞、2012年『マザーズ』でBunkamuraドゥマゴ文学賞、2020年『アタラクシア』で渡辺淳一文学賞、2021年『アンソーシャル ディスタンス』で谷崎潤一郎賞を受賞、2022年『ミーツ・ザ・ワールド』で柴田錬三郎賞を受賞。
たとえ価値観が合わなくても人は連帯できる
——最新作『ナチュラルボーンチキン』のパリピ編集者・平木直理や、前作の『ハジケテマザレ』のヤクモなど、最近の金原さんの作品には、以前と比べ明るい性格の人物が多く登場するようになってきました。心境の変化があったのでしょうか。
金原さん:実際に私の編集担当者に、ホストクラブ通いをしている文芸編集者らしくない人がいて、今回の平木はその担当がモデルなんです。
心境の変化といえば、フランスで過ごした経験が大きいかもしれません(2012年から6年間フランス・パリに在住)。子どもの頃は学校にもあまり通っておらず人間関係は恋愛だけだったこともあり、コミュニケーションをとる人が極端に少なかったし、それで十分だと思ってたんです。なので自分と価値観が合わない人たちとは絶対に関わりたくないという気持ちを強く持っていたんですが、異国の地ではそうも言ってられなくなり、これまでだったら関係を築かなかったであろう人たちとコミュニケーションをとるようになりました。
いざ仲良くなってみると、意外と抵抗なく連帯することができたのは驚きでした。私が勝手に切り捨ててきた人たちが、自分を救ってくれたり、新しい世界を見せてくれたりすることがあり得るのだと気づくことができたのは大きかったですね。
そういった価値観の変化があったからこそ、以前には書いてこなかったような明るいキャラクターがよく登場するようになったのかもしれません。昔はよく知らない人と会話するのが苦痛でしたが、今は楽しい。お互いに自立した個人という前提に立つと、わかり合えないままでも楽しくやれるって身をもって知りました。
——人間関係とともに仕事の幅も広がっていってるんですね。
金原さん:フランスで暮らしていたときから、自炊もしっかりするようになって。借りていたアパートのキッチンが立派で調理器具も豊富にあったので、凝った料理もよくするようになったんです。日々の暮らしに自炊という要素が入ってくるようになると、自然と小説にも料理が登場するようになりました。食に興味がなかった頃は、「小説に出てくる食べものがすべて不味そう」とか言われていたんですが(笑)。登場人物のキャラクターだけでなく、そこも変わってきた点かもしれません。
——フランスでの暮らしはさまざまな気づきを与えてくれた一方、ワンオペ育児も経験されていますよね。ワンオペ育児で一番つらかったのはどんな点ですか。
金原さん:やっぱり小説が思ったように書けなかったこと、また、書く時間を確保できなかったことですね。閉塞感で押しつぶされそうになり、このままパンクして死んじゃうんじゃないかって気持ちになっていました。前編で話したとおり、私は現実とフィクションがあってはじめてバランスがとれる人間なので、片方奪われてしまいとにかく苦しかったですね。生きるために書いているし、生きることと書くことはつねに連動しているので。
今は日本で暮らしていますが、フランスで暮らしていた経験がその苦しみを減らしてくれている実感はあります。日本にいるとどうしてもせわしなさに飲み込まれてしまいそうになるんですが、フランスにいたらもっとのんびりしていただろうなと想像するだけでけっこうラクになる。今、身を置いている環境だけがすべてじゃないと思えることで気持ちが軽くなります。
——ワンオペ育児と母としてのペルソナにも苦しんできたと、過去のコラムで拝見しました。
金原さん:一人の人間として生きてきたのに、子どもを出産した途端、周囲から「母親」として見られ、他人からの認識と自己認識とがどんどん広がっていく。母性幻想を押し付けられるうえに、ワンオペ育児。それらに追い詰められてボロボロになっていたことをコラムに書いたら、老若男女さまざまな人から「読んだよ」と声をかけてもらい、高齢の男性から「育児に参加してこなかったことを反省している」と感想をもらったこともありました。
母というペルソナを身につけなければやっていけなかった当時に比べたら、今はほとんどその仮面はなくなったと感じていますが、その時感じた怒りや悲しみは薄れることはないし忘れることはない。私は保育園と、小説の執筆に救われましたが、どちらかがなければ本当に死んでいたかもと思います。これから子どもを産む人たちのためにも、母親が抱えているつらさはその人個人の問題ではなく、社会と連動している問題である、ということが少しでも広く認識され、子育てをする人たちの環境が整うことを願っています。
下の世代の感覚についていけるように余力を残しておく
——コロナや#MeToo運動、母性幻想など、つねに社会問題をキャッチして執筆されています。ご自身が感じた怒りが執筆のテーマにつながることもあると仰っていましたが、今起きている問題に対応するために何かされていますか。
金原さん:デビューから20年経って、自分より若い人たちが担当についてくれることが増えてきたので、若い人たちの感覚についていけるように、余白のある状態をキープするというのを心がけています。
若い人たちはとにかく言葉に対する感覚が違いますよね。娘たちのやりとりを見ていてもLINEでは語尾を気にするし、他人に対して高圧的な態度をとるタイプの人間にすごく抵抗感があるように感じます。「私たちが若い頃は、年上の編集者からこんな態度とられてたんだよ」みたいな話をすると、「とんでもない!」「ありえない!」というリアクションをされますし。私たち世代がなあなあで許してきてしまったことに対して、きちんと拒否できる下の世代には頼もしさを感じます。それと同時に、私の本の読者にもこの世代は含まれるので、若い世代の視点みたいなものもきちんと想定しておかないといけないなと身が引き締まる思いもありますね。
私も歳を重ねていくし、世代間ギャップは必ず生じてきます。でも「わからない」と切り捨てるのではなく、わからなさをキャッチできるようにはしていきたい。娘が調べものをする際に、GoogleではなくTikTokで検索しているのにはびっくりしましたけど(笑)。
『ナチュラルボーンチキン』1760円(河出書房新社)
撮影/川島小鳥 取材・文/高田真莉絵 構成/渋谷香菜子