世界を舞台に活躍するピアニスト小林愛実さんのインタビュー後編は、産後の育児と仕事をテーマにお話をお伺いします。分娩も産後の体調も、想定外なことの連続だったという小林さん。体調不良と育児でピアノのことを考える余裕もなかったこと、復帰後仕事と育児を両立しながら悩んだ日々について語ってくれました。
イレギュラーの連続に戸惑う日々
——パートナーの反田恭平さんも音楽家として、国内外で活躍しています。小林さんの出産・育児に向けて、どのようにスケジュールや予定を調整していましたか?
小林さん:音楽家は2年ほど先までコンサートなどの予定が入っているため、個人の都合では簡単に調整できないんです。私は出産するから変更せざるを得なかったけれど、夫は当時、すでに決まっていた仕事は予定通り行い、新しい仕事はなるべく入れないように調整してくれました。
当初は自宅で子育てをする予定でしたが、夫と話し合い、近所にある私の実家で里帰り出産することに。初めての子育てだし、夫も仕事の都合上、毎日一緒にいられるわけではなかったので。結果的に里帰り出産して大正解でした。出産後は体調が優れない日が続いたので、両親のサポートが本当にありがたかったです。
——妊娠中にYouTubeの動画などを観て出産のイメトレをしていたそうですが、その準備は生かせましたか?
小林さん:イレギュラーの連続で、まったく生かせませんでした(笑)。陣痛が来てからも子宮口が開かず、分娩に3日ほどかかったんです。和痛分娩の予定が、促進剤を入れると子どもの心拍が落ちてしまったため使えないことになりました。促進剤なしだとなかなか子宮口が開かないので、開きやすくするために麻酔の量を減らさなければならず、激痛。
さらに、赤ちゃんの頭を吸引カップで引っ張る、吸引分娩を行いました。最後はとにかく無事に産まれてきてくれてよかったです。吸引分娩をすると、赤ちゃんの頭が吸引カップの引力で変形するんです。数日で元の形に戻ることを知らなかった私は、子どもと対面した瞬間、あまりの驚きに第一声は「頭の形、どうしたんですか!?」でした(笑)。
気持ちを切り替えて、体調の回復に専念
——退院後の育児は、いかがでしたか?
小林さん:退院後は私の体調不良が続き、思うように育児に注力できない日々が続きました。産後の傷が痛くて1カ月ほどまともに座れず、足がパンパンにむくんでしまったり、ホルモンバランスの乱れによって全身の節々が痛んだり……。
それから、授乳中の痛みも想定外でした。赤ちゃんが正しく吸えるようになるまで1カ月くらいかかり、それまでは授乳のたびに悲鳴を上げるほど痛くて。ドラマなどで見ていた、幸福感にあふれる授乳シーンと全然違うという気持ちになりました。
自分の体が思い通りにならないストレスはあったけれど、子どもに対してイライラすることはまったくなかったです。むしろ日に日に可愛さが増していって。2カ月目くらいから夜泣きもほとんどせずに夜通し寝てくれたから、助かりました。
——育児に奮闘する中で、ピアノを弾きたいと感じることはありましたか?
小林さん:正直、そのときはピアノのことを考える余裕がなかったです。年齢的にも体力にも自信があったから、すぐに体が戻ると思っていたけれど……大誤算でした。もうすでに決まっている仕事もあったため早めに復帰を設定していたのですが、体調がまったくよくならず、その焦りから精神的にも参ってしまって。
復帰コンサートの延期をすることになってしまい、とても落ち込みました。でも悩んでも仕方がない、となんとか気持ちを切り替えて、体調の回復に専念。体調も少しずつ回復していくなかで、ピアノの練習を始めました。
——久しぶりにピアノを弾いたときの感触はいかがでしたか?
小林さん:想像していたよりも弾けて、安心しました。真剣に弾くのは数カ月ぶりだったので。これほど長い期間ピアノと離れるのは、3歳でピアノを始めて以来のことでした。でも、ピアノを弾きながらも、“復帰が待ちきれない!”という感情が芽生えなかったんですよね。まだ育児に慣れていなかったし、もっと子どもと一緒にいたいと思う自分もいて。“私には子育てと仕事の両立が向いていないのかも…”と考えては、不安になったり落ち込んだりしていました。
——そういった不安と、どのように向き合いましたか?
小林さん:とにかくひとつひとつの仕事に集中することを心がけました。ピアノを弾くことは好きだし、そうしたら自然と楽しめるようになっていったんです。出産から1年が経った今も妊娠前の体には戻れていないから、復帰直後はかなり無理をしていたのでしょうね。体は相当な負荷を抱えていて、それがメンタルにも影響したのだと思います。
今も仕事中に“子どもと会いたいな”と思うことはあるけれど、その感情は寂しさではなくて、ワクワク感なんです。離れている時間があるから、一緒に過ごす時間のありがたみが増すというか。早く会いたいからピアノの練習を頑張ろう!とモチベーションにもなっています。
自分よりも大事な存在が、ピアノの表現も変えた
——小林さんもパートナーの反田さんも、国内外を飛び回る忙しい日々を送っています。ともに家を不在にすることもあるのではないでしょうか。
小林さん:そういう時は、近所に住む私の両親に預けることが多いです。ありがたいことに「365日いつでも預かるよ」と言ってくれるので、素直に甘えています。両親に予定があれば、ベビーシッターさんに依頼。“頼れる人には頼る、使えるサービスは使う!”と決めています。頑張って無理をすると自分のストレスがたまるし、自分がストレスをためると、子どもにも良くない影響を与えてしまうと思うから。
私にとっては子どもと過ごす時間と同じくらい、夫との時間も大切なので、定期的に二人きりで出かけたりもしています。今年の誕生日は家族で水族館へ行き、夜は子どもを預けて二人でディナーを楽しみました。お互いに忙しく働いていても、すれ違いや寂しさを感じることがないのは、きちんとコミュニケーションを取れているおかげかな、と。
——出産を経て、「音が優しくなった」と言われることもあるそうですね。ピアニストとしての変化は、ご自身でも感じられますか?
小林さん:感じますね。実は夫の演奏も、音が温かくなったと感じます。子どもに対して「愛おしい」、「この子がいなくなったら私は生きていけない」と思う感情は、子どもが産まれるまで感じたことがなかったから。それが音楽に表れているんだと思います。
私自身は、人となりも変わったんじゃないかな。妊娠するまでは自分をいちばん大事にして生きてきたけれど、子どもが産まれて初めて、自分よりも大事な存在ができたんです。自分のことは後回しで子どもを優先したり、何もかもが思い通りに進まなかったり、そういう生活を続ける中で、すごく心が広くなったと実感します。
——妊娠・出産は女性にとって、最も大きな決断のひとつであり、人生を大きく変える出来事でもあります。悩んでいる人にアドバイスするとしたら、どんな言葉をかけたいですか?
小林さん:私自身、自分に母親が務まるのかな、ちゃん育てられるかなと心配していた時期がありました。でも、子育てを経験せずに母親としての自信をつけるなんて無理なことですよね。反対に、子どもが産まれれば育てなければいけないし、母親にならざるを得ない。人は育児をしながら母親になっていくのだと、実際に子育てを経験して学びました。
子どもを持つか持たないかはもちろん個人の自由ですが、持ちたいけど不安で悩んでいるのであれば、悩んでいる時間がもったいないと私は思っています。考えることで悩みが解消されることは絶対にないので、行動に移してもいいのではないでしょうか。
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撮影/森川英里 ヘア&メイク/中村了太 スタイリスト/藥澤真澄 取材・文/中西彩乃 構成/渋谷香菜子