数々のメディアで執筆するライターの今祥枝さん。本連載「映画というグレー」では、正解や不正解では語れない、多様な考えが込められた映画を読み解きます。第8回は、第96回アカデミー賞で主要5部門にノミネートされ、うち助演女優賞を受賞した感動ドラマ『ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ』です。
寄宿舎でクリスマス休暇を過ごす羽目になる、生きづらさを抱えた不器用な3人の物語
堅物で尊大な古めかしい教師ポール・ハナム。生徒たちに意地の悪い態度で接しながらにやにやするも、その胸の内が明かされていくにつれてどんどん魅力が増していく。演じるポール・ジアマッティは、『サイドウェイ』『シンデレラマン』やミニシリーズのテレビドラマ『ジョン・アダムズ』、『ビリオンズ』などの出演作で演技力に定評がある。本作で第96回アカデミー賞主演男優賞候補に。
『サイドウェイ』のアレクサンダー・ペイン監督と主演俳優ポール・ジアマッティのコンビが、再びタッグを組んだ『ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ』。この顔ぶれだけで、映画ファンなら観たいと思わずにはいられないはずだ。しみじみとした人生の機微を描いた『サイドウェイ』は、最高の大人の癒し映画だったから。
そして、この期待が裏切られることはない。
舞台は1970年、ボストン近郊にある全寮制の名門私立男子校。考古学の教師ポール・ハナム(ポール・ジアマッティ)は、真面目で融通が利かず、嫌味っぽい性格で生徒からも同僚たちからも煙たがられている。
クリスマス休暇で生徒たちのほとんどが実家に帰省するが、帰れない事情がある生徒のために一人の教師が付き添いとして居残らねばならない。本来なら順番制なのに、家族がいないからと子守を押し付けられたポールは、最終的に寮の料理長メアリー・ラム(ダヴァイン・ジョイ・ランドルフ)と優秀だが複雑な家族関係に苦しむアンガス・タリー(ドミニク・セッサ)という生徒とともに、寒々とした宿舎で休暇を過ごす羽目になる。
母親が再婚相手と旅行に出てしまい、帰る場所がなくなってしまったアンガス、大切な息子をベトナム戦争で亡くしたばかりのメアリー、そしてねじれまくったポールの厭世的な生き方の背景にある複雑な思い。それぞれに生きづらさを抱えて社会の枠からはみ出してしまった彼らの悲しみが、そこはかとなく漂うユーモアとともに繊細なタッチでつづられる。
反発し合いながらも、少しづつ距離が近ずいていくポールとアンガス。アンガスを演じるのは、約800人の応募者の中から見事アンガス役を射止めて本作で映画デビューを果たしたドミニク・セッサ。不器用でピュアな心を持つアンガスをみずみずしく演じて、批評家にも絶賛された有望株だ。
大切な息子を亡くしたばかりの料理長メアリーは、アンガスに優しくするようポールに言うが、彼女自身、いつもどこか物憂げでその表情には悲しみをたたえている。演じるダヴァイン・ジョイ・ランドルフは、舞台のミュージカルでも高く評価されており、映画は『ルディ・レイ・ムーア』『ラスティン:ワシントンの「あの日」を作った男』などに出演。本作の演技は賞レースを席巻し、アカデミー賞では見事、助演女優賞に輝いた。
人生のペーソスとユーモアを伝えるポール・ジアマッティの名演が涙を誘う
ポールなりにアンガスを慰めようとし、クリスマスを盛り上げようとするが空回り。ポールを演じるジアマッティのユーモアのセンスが光る。
第96回アカデミー賞で主要5部門にノミネートされ、うち助演女優賞を受賞した『ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ』は、批評家と観客の双方の絶大な支持を得ている。しかし、端的に言うなら特別なことは何もない映画だ。あったかくて普遍的なメッセージを伝える良質の人間ドラマ。その昔ながらの映画の良さを思い出させてくれる、王道の作りにこそ価値がある。それは今の時代にこそ貴重に感じられて、心地よく、懐かしさと喜びで胸がいっぱいになる。
途中からはロードムービーにもなっていくのだが、その過程で交わされる会話のひとつひとつ、エピソードの積み重ねが、じわりじわりと効いてくる。このようなありふれた題材をさりげなくも巧みに見せ切る手慣れたペイン、また脚本を手がけているデヴィッド・ヘミングソンの仕事ぶりがまた素晴らしく、私は途中から終始涙目で最後は嗚咽をこらえるのに必死だった。こんな体験は仕事で年中、浴びるように映画を観る私でも、そうあることではない。
何よりも本作の演技でアカデミー賞主演男優賞にノミネートされたポール・ジアマッティ扮するポールの味わい深さといったらない。その繊細で複雑なレイヤーは秀逸で、酒を飲んでベッドに倒れ込み、脇汗の匂いを嗅いだりおざなりに体操をしたりとしょぼいことこの上なしなのに、どんどん好きにならずにはいられないのである。『サイドウェイ』から人気ドラマ『ビリオンズ』まで、人生のユーモアとペーソスを体現するジアマッティの“旨味(うまみ)”は、本作の主人公のしがない教師ポールにもぎゅっと詰まっている。
アカデミー賞助演女優賞に輝いたダヴァイン・ジョイ・ランドルフが演じるメアリーと、本作で注目を浴びた若手のドミニク・セッサの好演も言わずもがな。孤独を抱える3人が、そっと寄り添うように、お互いを思いやる気持ちがしみじみと伝わってくる。ペインによる映像世界は、どこまでも優しい。
自分が感じる“幸せ”の価値を、他人や社会の尺度ではかってはいけない
自分のわがままから引き起こしてしまった問題によって、ポールを窮地に追い詰めてしまうアンガス。そんな彼に寄り添いながら、ポールのことを思う二人の気持ちが痛いほどよく伝わってくる。
そもそも生きるとはつらいことなのだと、この映画を観ながらしみじみと思う。若いアンガスにとってはもちろんのこと、個人的な経験から言えば年齢を重ねるにつれてまた別の問題も生じて、生きづらさがなくなることはないのだと感じる。特に今の時代にあって、誰にとっても心から気が休まるような瞬間があるのだろうかと思うこともある。
それでも人生は決して悪いことばかりではないのだということを、この映画は信じさせてくれる説得力がある。クリスマスのほんの短い間、3人の人生が偶然にも交差した。長い人生から見たら、それはほんの一瞬の出来事かもしれない。しかし、この記憶さえあればアンガスはもう人生を踏み外すことはないのだろうと思えるし、メアリーも最悪の時期は脱することができたように見える。
そしてポールだ。アンガスとの絆を通して、教師としての矜持を実はしっかりと心の中に持っていたことが証明されるポールもまた、この記憶によって残りの人生は自分自身を受け入れて生きていけるのではないだろうかと想像できる。
彼がこれまでに抱えてきた生きづらさは、生まれ持った容姿や体質、性格、それらが後天的に与えたもろもろの体験によって形作られている。努力ではどうしようもないこともあれば、変えたくても根本的には変えられない性質のものもあるだろう。
例えばメディアなどでは、そうした生きづらさの理由を分析して自分なりに克服して、「今の自分がある、今の自分が好き」と笑顔で語るような人の姿を強調しがちだ。もちろん、それは努力の賜物であり、その姿に励まされる人も多いに違いない。一方で、実際にはそんなふうに生きることがどうしても難しく、なぜ自分はそうできないのかと密かに一人、落ち込んだりする人も少なくないのではないだろうか。
時代に合った最先端の考え方や生き方ができなくても、人は幸せになっていいし、幸せになれる。ただし、その形が世間一般の尺度や価値観と合わなかったとしても、自らが感じる”幸せ”をしっかりと受け止めて、慈しむことを忘れてはいけないのだと思う。
どこに行っても、なんとなく溶け込めないポールと幸せな人々の姿に感情がかき乱されるメアリー、そして若者らしく女の子と仲良くするアンガス。三者三様の人物像の対比が絶妙な味わい。監督のアレクサンダー・ペインは、アカデミー賞に作品賞、監督賞各3回を含む計19回ノミネートされ、『サイドウェイ』『ファミリー・ツリー』で脚色賞を受賞。ゴールデングローブ賞では『サイドウェイ』でミュージカル・コメディ部門、『ファミリー・ツリー』でドラマ部門と2度の作品賞を獲得している才人だ。
『ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ』6月21日(金)、TOHOシネマズ シャンテほか全国ロードショー!
監督:アレクサンダー・ペイン
脚本:デヴィッド・ヘミングソン
出演:ポール・ジアマッティ、ダヴァイン・ジョイ・ランドルフ、ドミニク・セッサほか
配給:ビターズ・エンド
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取材・文/今 祥枝