韓国人作家として、そしてアジア人女性としてはじめてノーベル文学賞を受賞したハン・ガンさん。歴史的なトラウマと向き合い、人の命のはかなさをあらわにする強度の高い詩的散文が評価されているハン・ガン作品が放つ魅力と今読むべき4冊を、韓国本専門書店「チェッコリ」の佐々木静代さんに教えてもらいました。

佐々木静代
佐々木静代

大学卒業後、エレクトロニクス情報誌出版社に勤務。専業主婦時代を経て、サンケイリビング新聞社に入社後、ユーザー向け公式サイト(旧えるこみ)編集長を10年務める。退職後、2015年より株式会社クオンが運営する書店・チェッコリの立ち上げから関わり、現在はクオンならびにチェッコリの宣伝広報を務める。一般社団法人 K-BOOK振興会の事務局長も兼務する。

苦しみから目を背けずに向き合う

ハン・ガン 本 小説

佐々木さん:ハン・ガンさん(54歳)は、歴代のノーベル文学賞の受賞者に比べてまだお若いので、このタイミングでの受賞には少し驚きましたが、権威あるブッカー国際賞も受賞されていますし、今回の受賞は純粋にうれしいです。


スウェーデン・アカデミーも発表していたように、革新的ともいえる実験的な文体を駆使しながら、韓国の歴史が抱える過去のトラウマに向き合っていることが評価されたのではないでしょうか。世界中で戦争が起きてしまっている今、一人の人間が傷つき悲しんでいることを無視してはいけない、その傷を忘れることなく語り継いでいきましょうというメッセージを、作品を通じて伝えてくれるのは大きいと思います。 


ハン・ガンさんの作品は、美しい文章でもって、えぐれるような強い痛みを伝える、という一見ミスマッチにも思える作風が特徴です。韓国語原文が読めなくても、日本には素晴らしい翻訳家の方々がたくさんいらっしゃるので、一冊読めばその繊細かつ強さを持つ文章に魅了されるはずです。


ノーベル賞の講演で「世界はどうしてこんなに暴力的で苦しいのか」「同時に、世界はどうしてこんなに美しいのか」とお話しされていました。この根源的な問いが、ハン・ガンさんを執筆に向かわせていたのかと思うと、作品への理解度もぐっと深まります。


ハン・ガンさんの作品はどれも胸を打たれるものばかりですが、その中でも「yoi」読者の方々に響くであろう4冊を紹介します。傷ついたり、生きづらさを感じたりすることは、個人の問題ではなく、社会の問題である、ということを改めて気づかせてくれるはずです。

今、読みたいハン・ガンさんの作品4選

『ギリシャ語の時間』

ハン・ガン 『ギリシャ語の時間』

斎藤真理子/訳 晶文社 1980円

ある日突然言葉を話せなくなってしまった女性が、言葉を取り戻すために古典ギリシャ語を学び始める。女性が通い始めたギリシャ語教室の講師は、次第に視力を失っていく。この二人の出会い、そして対話を通じて人間が失ったものとは何かを問いかける。

佐々木さん:以前、ハン・ガンさんがオンラインのトークショーに出演してくださった際に、「私の作品を初めて読む人はこれから読むのがおすすめです」とおっしゃっていた作品なので、まずはこの作品から紹介します。ハン・ガンさん自身、「この本は、生きていくということに対する、私の最も明るい答え」というコメントを寄せています。


この作品は、韓国の悲しい歴史ではなく、普遍的な問題をテーマにしているので読みやすいと思います。言葉を失った人間が、言語の原点ともいえる古典ギリシャ語を習い始めるという設定にまずうならされますよね。「失う」ということはどういうことなのかという問いと、失う側の痛みが胸に静かに刺さってきます。人間の本質について思いを巡らせる作品です。


ハン・ガンさんは作家より先に詩人としてデビューされたからか、言葉の表面だけをなぞるのではなく、そのもっと奥にある意味を想像させる文章を書かれます。静寂な描写の中に、言葉の力がパッと浮かび上がってくるような印象を持つかもしれません。その静かな言葉の力が私たちの心の傷に寄り添い、そっと癒してくれるでしょう。

『すべての、白いものたちの』

ハン・ガン『すべての、白いものたち』

斎藤真理子/訳 河出書房新社 1980円(文庫版もあり)

チョゴリ(韓服)、白菜、産着、骨、雪……。白くはかないものをめぐり、ホロコースト後に再建されたワルシャワの街と、朝鮮半島の記憶をつなぐ、小さな65の物語。

佐々木さん:小説とエッセイ、そして詩がたおやかに混ざり合っているような作品です。生まれてすぐに亡くなってしまったハン・ガンさんのお姉さんのことが作品の根底にあり、寂しく、そして美しくもある。一言では言い表せないけれど、読むときっと宝物のような存在になる、そんな本です。


単行本の方はベージュのようなものや、グレーがかったものまで、さまざまな紙を使用していて「白と一言でいっても、さまざまな背景がある」という作品のメッセージを、本そのものからも伝えてくれる一冊になっています。本を手に取る喜びを教えてくれる、豊かな装丁です。


この作品だけでなく、ハン・ガンさんの描く物語には「雪」というキーワードがよく登場します。雪は、美しい反面、自然災害など恐ろしい一面もある。また、いずれ溶けていく儚いものだけれど、触るとその感覚はしばらく記憶に残りますよね。さまざまな側面を持つ雪という存在は、ハン・ガンさんの作品を象徴しているもののひとつでしょう。

『少年が来る』

ハン・ガン『少年が来る』

井手俊作/訳 クオン 2750円

1980年5月18日、韓国全羅南道の光州を中心として起きた民主化抗争、光州事件。抗争で命を落とした者がその時何を想い、生存者や家族は事件後どんな生を余儀なくされたのか。その一人一人の生を深く見つめ描き出す、時間や地域を越えた鎮魂の物語。

佐々木さん:BTSのRMさんが読んだと話題になったこともあるので、ご存じの方もいらっしゃるかもしれません。光州事件という、韓国の光州市で軍事クーデターに抗議をした学生や市民らが軍事制圧され、多数の犠牲者を出した悲しい事件をテーマにした作品です。


韓国では、過去の悲しい出来事の扱いが、その時の政権によって変わってしまうんです。でも小説はその時の状況に関係なく、触れることができる。この物語からはそんな文学の持つ力を感じます。 


ハン・ガンさんは光州出身なんですが、光州事件が起こる少し前にソウルに引っ越しているそうです。「自分がその場にいなくて、何もできなかった」という喪失感がこの作品の執筆に向かわせたのではないか、といわれています。痛み、嘆き、苦しみ……。負の感情があらゆる角度から描かれているので、軽やかには読み進められないかもしれません。


でも、この物語を読めば、韓国の方々がいかに絶望を味わいながら民主主義を勝ち取ってきたのか、その断片に触れられます。読後は、きっと韓国への見方も変わると思います。K-POPやドラマだけでは知り得ない、韓国の人々の心情に触れることもできるはずです。

『別れを告げない』

ハン・ガン『別れをつげない』

斎藤真理子/訳 白水社 2750円

済州島4.3事件を背景に、生きる力を取り戻そうとする女性たちの再生の物語。作家の私は、虐殺に関する本を出してから悪夢を見るように。怪我をして入院中の友人のインソンから「済州島の家に今すぐ行って、残してきた鳥を助けてほしい」と頼まれ、大雪の中済州島に向かう。そこで、私は済州島4.3事件を生き延びたインソンの母が追い求めた真実への執念を知ることになる。

佐々木さん:『少年が来る』を出版した後、約7年かけて執筆したそうです。1948年4月3日、米軍占領下にある南朝鮮の単独選挙反対を掲げた青年らが蜂起し、数万人が官憲に虐殺された済州島4.3事件をテーマにしています。


ハン・ガンさんを思わせる主人公、映像作家である友人、そして済州島4.3事件を経験した、友人の母親。語り手が入れ替わるのでやや複雑な構成になっていますが、「この事件を忘れてはいけない」というメッセージはしっかりと受け取ることができるでしょう。母親はなぜ「生きた抜け殻のような人」になってしまったのか、それを知ることは痛みを伴います。でも、一筋の光が差し込む、再生の物語でもあるのです。

チェッコリ 韓国 書籍 本

チェッコリ


出版社「クオン」が運営する、韓国書籍専門書店。韓国の作家やアーティストらを招いたトークイベントも開催する。


住所:東京都千代田区神田神保町1-7-3 三光堂ビル3階
電話:03-5244-5425
https://www.chekccori.tokyo

撮影/吉田歩 取材・文/高田真莉絵 構成/渋谷香菜子