毎日、当たり前のように見つめている自分の「顔」。誰かと比べて落ち込んだり、SNSに載せる顔写真を加工したくなったり…そうした心の動きには、脳のメカニズムが深く関係しているといいます。私たちの心と顔の関係について、『顔に取り憑かれた脳』の著者である中野珠実さんにお話を伺いました。

教えていただいたのは…
中野珠実

大阪大学大学院情報科学研究科教授

中野珠実

情報通信研究機構(NICT)・脳情報通信融合研究センター(CiNet)主任研究員。身体・脳・社会の相互作用から生まれる心の仕組みに関する研究を行っている。著書に『顔に取り憑かれた脳』(講談社現代新書)。

鏡の登場によって変化した「自分」のとらえ方

脳 顔 依存 顔写真 顔に取り憑かれた脳 中野珠実-1

──2023年12月に上梓なさった『顔に取り憑かれた脳』に、「顔」は他者や自己を理解し、コミュニケーションするうえで重要な意味を持つと書かれていましたが、まずはそこから伺えますか。

中野 私たちは、現在やこれからの社会でよりよく生きていくために、どういう行動を選択するべきかという意思決定をつねにしています。より最適な選択をするために重要なのは、自分に関連する情報を集めて状況を正確に理解・評価することです。

自分の顔を見ることは心身の状態や快・不快などの感情を知ることにつながり、自分の顔が相手にどう見えているかを知ることは、相手や社会に与える印象を推測したうえでより適切な振る舞いや選択をすることにつながる大切な要素となります。

──「自分」というものを思い浮かべるとき、現代の私たちは自分の顔をイメージすることが多いと思いますが、鏡がなかった時代の人たちは「自分」をどんなふうにとらえていたのでしょう?

中野 権力の象徴であり、宝物であった鏡を庶民が持てるようになったのは、江戸時代以降だといわれています。多くの人が今ほど自分の顔をよく知りえなかった頃の「自分」は、もっと漠然としたものだったのではないかと思います。

例えば、これまでの記憶や経験、家族構成や好きなものといった、自分を取り巻くものや、まわりの反応や評価から複合的に構成されるイメージというか。

自分の中から生まれる「他者の目線」という縛り

──さまざまな要素で成り立っていた抽象的な「自分」が、鏡の登場によって「顔」という具体的なビジュアルに象徴されるようになったということですね。また、著書に鏡の前で恥ずかしがるのは人間だけの可能性が高い、という記述がありましたが、こちらも詳しく教えてください。

中野 鏡に映る自分の姿に対する反応は、3段階で変化していきます。生後3カ月から2歳まで、88人の子どもを対象にした研究によれば、人間は2歳頃から鏡の中の像が自分であることを認識できるようになるそうです。この能力を「鏡像自己認知」といいます。

【鏡像自己認知の3段階】
①生後6〜12カ月
鏡の中に映る自分を、遊び相手の他者として認識し、声をあげたり、キスしたりする。
②生後14カ月〜20カ月
鏡に対して尻込みをしたり、泣き出したりするなど、鏡を避けるような反応を示す。
③生後21カ月〜24カ月
鏡に映る自分の姿を見て、はにかんだり、おどけた顔をしたりと、それが自分の反射物であることをわかっているような態度(自己指向性反応)をするようになる。

他の動物も、鏡に慣らしていけば鏡像自己認知ができるようになりますが、歯についたゴミを取るなど、今まで見えなかったところを見せてくれるツールとして鏡を使います。けれど、人間は今まで見えなかった自分の姿が見えたときに「恥ずかしさ」を感じるようになるのです。

──それはなぜでしょう?

中野 「恥ずかしさ」というのは、社会的基準や世間の目といったベースから生じる概念です。人間は、他者から見える自分の姿を認識すると、そこに「他者の目線」を作り出し、その目線から自分を評価することで「恥」が生まれます。これは、人間独特の複雑な感情だと考えられます。

私たちは個人主義のように見えて、結局は社会に縛られていますよね。でもそれは、リアルな社会に縛られているというより、自分の中で作り出した他者目線や自己イメージに縛られているのです。

──そうやって自分が作り出した他者の目線が、さまざまな悩みを生み出すのでしょうね。

中野 そうなんです。私たちは、他者の目線から自分の顔を評価し、理想の自己イメージと現実とのギャップに悩むようになってしまいました。インターネットの発達やSNSの浸透によって、その傾向はますます強くなっていると思います。

自分から見える「顔」とまわりが見ている「顔」は別もの?

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──例えば、残業帰りの電車で窓に映る疲れた自分の顔や、他者が撮った自分の写真を見てショックを受けるのも、自己イメージとのギャップによるものでしょうか。

中野 人間は自分に対するポジティブなバイアス(偏り)があるので、もともとの自己評価が高いんです。美化した自己イメージを持っているからこそ、窓や写真に写った自分とのギャップにショックを受けるというわけです。ただ、自己評価が低いと自己否定も強くなってしまうので、ある程度必要なものでもあります。

──お話を聞いていると、まわりの人たちから見えている自分の「顔」と、自分が見ている自分の「顔」は、かなり違うのかも…という気がしてきました。

中野 まったく違いますね。まわりの人と自分が見ている「顔」のいちばんの違いは、「表情」です。私たちは他者と接するとき、相手の自然かつダイナミックな表情をもとに、“その人らしさ”を感じています。でも、一人で鏡を見るときって、特に表情がない素の顔ですよね。

──確かに、たいてい真顔です。わざわざ自分と表情豊かにコミュニケーションを取る必要はないですもんね。

中野 そのとおりです。他者と接しているときのような表情の変化がないから、まわりの人たちが感じる自分の“らしさ”がつかめないんです。まわりの人が“この人らしい”と感じる写真を見たときにギャップを感じてしまう理由もそこにあります。

──自分のことは、見えているようで見えていないのですね。

中野 静的な自己イメージは持っているけれど、実際に他者に見せている表情や振る舞いのような動的な自己イメージって、意外と自分ではつかめていないんですよ。

つらいときに口角を上げるのは逆効果

──よく「口角を上げるとポジティブになる」といわれますが、落ち込んでいるときに無理やり笑顔をつくると、自分が落ち込んでいることを余計に自覚し、かえって幸福度が低下すると書かれていたのにも驚きました。

中野 もちろん、楽しいときは笑顔をたくさんつくるほうが幸福度も上がります。ただ、あまりにもつらい状況で無理やり笑顔をつくっても、脳が誤解することはないので、ただの筋肉運動にしかなりません。「まぁいっか」と思える状態で笑顔をつくるのはありかもしれませんが、嘘くさい笑顔は効果がないんですよね。

ですが、他者に対する影響はあると思います。例えば、相手が落ち込んでいるときに「大丈夫だよ」と笑顔を見せることで、相手もつられて「大丈夫かもしれない」と思えるようになったりしますよね。

──ありますね。楽しそうに話している人を見て、思わずこちらまで微笑んでしまったり。

中野 他者の表情を無意識に模倣することで、その表情に応じた感情が自分の中で生まれ、他者と同じ感情を共有できる現象を「情動伝染」といいますが、ポジティブな情動伝染は親しい関係性の中で起こりやすいといわれています。

ですから、親しい人とのコミュニケーションで笑顔をつくることによって、ポジティブなフィードバックのループが起きることは十分にあると思います。

▶︎次の記事では、脳が自分の「顔」をVIP扱いする理由や、自分の顔写真を加工したくなる理由などについて伺います。

イラスト/原裕菜 画像デザイン/坪本瑞希 取材・文・構成/国分美由紀