「諸行無常」「主人公」「活潑潑地」etc...なんとなく知っているものから、まったく聞いたことがないものまで、仏教では「禅語」と呼ばれるたくさんの言葉があります。禅の世界や仏教の教えを言葉にした禅の言葉たちには、現代を生きる私たちの心を軽くしてくれるヒントが詰まったものがたくさん! 臨済宗龍雲寺住職・細川晋輔さんに、メンタルに効く“禅ワード”(禅語)について教えていただきました。

臨済宗龍雲寺住職・細川晋輔さん 禅語 禅ワード

細川晋輔

龍雲寺住職

細川晋輔

1979年東京生まれ。東京都世田谷区、臨済宗龍雲寺住職。佛教大学卒業後、京都の臨済宗妙心寺の専門道場にて九年間の修行。2013年に龍雲寺住職に。著書に『禅の言葉とジブリ』(徳間書店)、『迷いが消える禅のひとこと』(サンマーク出版)等。

“禅ワード”(禅語)がメンタルヘルスに効くって本当?「挨拶」「玄関」も実は禅の言葉だった!

“禅ワード”(禅語)とは、人生という旅を歩く「道しるべ」や「杖」になるもの

臨済宗龍雲寺住職・細川晋輔さん 禅語 後ろ姿 禅ワード

——まず初めに「禅語」とはどういうものなのか教えていただけますか。

細川さんわかりやすく言うと、禅語は「道しるべ」ですね。禅語は、悩んだときに助けになるもので、メンタルヘルスの安定に効果があるものだとは思います。しかし、特効薬になるわけではない。

例えば、「渋谷まで5km」という看板を見ても、それだけでは渋谷にたどり着くことはできませんよね。その標識を参考にして、渋谷に向かって歩き始めなければならない。禅語も同じです。その言葉を知り、私たちがどのように感じ、どのように使っていくか……ということが大切なんです。

また、自分の歩みを助けてくれる「杖」の役割を果たしてくれる禅語も数多くあります。

——直接の解決策になるわけではなく、そのヒントになる言葉ということですね。

細川さん:また、知っている禅語を改めて見たり読んだりすることによって、「ちょっと待てよ」「自分はよくない考え方にとらわれていないか」と考え直すきっかけをくれる場合もあります。

禅語を知っておくと、「立ち止まる」ことができるようになるということですね。

「挨拶」「玄関」…実はこれも“禅ワード”(禅語)だった!

臨済宗龍雲寺住職・細川晋輔さん 禅語 全身 禅ワード

——有名な禅語だと「諸行無常」は聞いたことがありますが、他にもたくさんの禅語があるのでしょうか?

細川さん:みなさんは禅語というと、難しい仏教用語をいくつか思い浮かべたりするかもしれません。しかし、日常で使っている言葉の中にもたくさん禅語はあるんですよ。

例えば「挨拶」。これも禅語です。“挨”は近づく、“拶”は引き出すという意味で、「近づいていって引き出していく」。転じて、「本当に大事なことは手取り足取り教えてもらえないよ」という意味なんです。

実は「玄関」も禅語です。禅宗の「玄妙な道への関門」という意味から来ています。住宅の玄関でも、職場の玄関でも、どんな思いでそこを通るかによって1日は変わると私は思います。「これは自分の人生を満たしていくために大切な日々の関門なんだ」という思いを持つと、玄関を通ることによってスイッチが切り替わる気がするんですよね。


「主人公」という言葉も「自分の中の本当の自分」という意味の禅語なんですよ。このように、「これ禅語だったの!?」と驚かれる言葉はたくさんあります。禅語は、それくらい私たちの日常の中に溶け込んでいるのです。

メンタルヘルスに効く禅ワード(禅語)vol.1「諸行無常」

無力感に効く“禅ワード”(禅語)は…「諸行無常」

無力感に効く“禅ワード”(禅語)は…「諸行無常」

「諸行無常(しょぎょうむじょう)」の意味は?
あらゆる現象は変化してやまない。
仏教の根本理論。

「物事はうまくいかなくて当然」そう教えてくれる言葉

「物事はうまくいかなくて当然」そう教えてくれる言葉

細川さん仏教では1/75秒ずつさまざまなものが変化していると言われています。すべてのものは移り変わっていく。一瞬たりとも留まるものはない。

これは医学的な話ですが、私たちの肉体の細胞も、1年半後にはすべて入れ替わっていると言われてますよね。つまり、変わらないものなどない。老いたくなくても老いてしまうし、死にたくなくても死んでしまう。そのままにしていたくても、すべてのことは絶対に変わってしまうのです。

無力感に苛まれたとき、この「諸行無常」を心に止めておくことが、とても重要です。「物事は思い通りにはいかなくて当然だ」「すべては移ろいゆくものだ」と悟ることができ、心の安らぎを得やすくなるでしょう。

すべては変わるからこそ、目の前のものを大切に

すべては変わるからこそ、目の前のものを大切に

細川さん無力感を感じるとき、または「自分は何もできない」と思ってしまうときに、ぜひ思い出してほしい言葉です。

何かのトラブルや立ち行かない問題が起きたとき、自分が無力であれば落胆しますよね。「諸行無常」という言葉の意味を知っている方も多いとは思いますが、いざ出来事に直面すると、無力感に苛まれることもあるでしょう。

例えば、お気に入りのコップが割れてしまった。仲がよかった人と縁が切れてしまった。部署異動でまったく違う部門に異動になった。大切な人が亡くなった……。生きていると、自分が大切にしていた何かや誰かを失うことはよくあります。そしてそれが、自分の力ではどうにもできないものであることも多いです。

しかし、永遠に割れないコップもないし、死ぬまで同じ友達、同じ同僚、同じ部署で生きていくことなんてできません。そして、死は誰にでも必ずやってきます。

それが「諸行無常」です。自分の体すら泡沫のものなのですから、自分の思い通りにできることなんて、実はなにもないのです。

己は無力だと感じたときは、「無力感を取り払う」のではなく、「人はすべての物事に対して無力である」と知ることです。「人生は諸行無常だ」と立ち止まり、今目の前で起きている現象を大切にしてみてください。

メンタルヘルスに効く禅ワード(禅語)vol.2「主人公」

メンタルヘルスに効く禅ワード(禅語)vol.2「主人公」

「主人公(しゅじんこう)」の意味は?
禅語での意味は、本当の自分。

「本当の自分」探しは「一生かける」という時間軸こそが大事

「本当の自分」探しは「一生かける」という時間軸こそが大事

細川さん:物語などの主役を意味する「主人公」という言葉。実はこれも、禅語なんです。言葉の意味としてはとても単純で「あなたさま」「主人さま」なのですが、それはつまり「自己」のことなんですね。

自己とは「他人と比べて」ではない、自分自身ということです。

では、その「他人と比べてではない自分自身とは?」と考えてみると、自分がもぬけの殻であることに気づく。例えば僕の場合、「細川晋輔です」だとただの名前。「男です」だとただの性別。「お坊さんです」というのは職業。「兄がいて妹がふたりいます」はただの兄弟構成で、「阪神ファンです」はただの好きな球団ですよね。

何かの力を借りずに、自分を説明することは難しい。人って、自分だけで自分を証明するものを実は持っていないんですよ。でも、この説明できない「自分」こそが「自己」で、「本当の自分」というものなんです。

楽しみも苦しみも同じ「豊かさ」として加点して生きていこう

楽しみも苦しみも同じ「豊かさ」として加点して生きていこう

細川さん:「主人公」という言葉と向き合うと、「自分」がわからなくなりますよね。属性以外で、どうやって語ればいいんだろう、と。でも、それでいいんです。「自分」について深く語れる言葉なんて、誰も持っていないんですよ。けれど、それを考える時間こそが大切なんですね。言葉が見つかるか、という結果は些細なことです。

例えば、目の前で赤ちゃんが溺れていたら、ぱっと救いますよね。そういう無意識の部分にこそ「本当の自分」がいると思うんです。見返りがどうのとか、誰の子どもだとか、そういう事を考える隙のない、無意識の一歩というところに、「自己」がいるんです。

……と、言われても、余計に迷ってしまう方もいると思います。でもそれが人生なんですよ。ご自身のことがわからなくて迷い苦しんでいる方にお伝えしたいこと。それは、抜け出したり逃げたりする方法ではなく、「その迷いや苦しみも楽しむぞ」くらいの気持ちが必要だ、ということです。

私たちは、しなやかな心を生きていく中で作り上げていく必要があると思うんです。楽しいときは楽しさに100傾き、悲しいときは逆方向に100傾く。これを「プラスマイナスゼロ」ではなく、「足して200の心の豊かさだ」ととらえて生きていくのがおすすめです。

「自分を見失う」「自分がわからない」のは当たり前。その苦しみすら人生の豊かさに変えて、「死ぬまでにわかればいいや」くらいの感覚で、長い目で自己を見つめていく。自分のことがわからなくなって、迷い苦しんでいるときは、「主人公」という言葉を思い出して、ある種の開き直りのような、豊かさや強さを感じてください。

メンタルヘルスに効く禅ワード(禅語)vol.3「活溌溌地」

マンネリに効く“禅ワード”(禅語)は…「活溌溌地(かっぱっぱっち)」

メンタルヘルスに効く禅ワード(禅語)vol.3「活溌溌地」

「活溌溌地(かっぱっぱっち)」の意味は?
魚がぴちぴちと跳ねる様子。
「かっぱっぱっち」と読み、勢いのある音を当てているだけで漢字自体に特に意味はないのだそう。

昔と変わらず元気に跳ねているか? と自分に問う

昔と変わらず元気に跳ねているか? と自分に問う

細川さん:元気に跳ねる魚の様子を表した「活溌溌地」。ただ元気な音を当てているだけで、漢字に深い意味はないと言われています。なんだかそれがかえっていいですよね(笑)。

要は「元気にピチピチしてますか?」っていうことなんです。

人は経験を積むと、身軽でなくなります。知識や常識で重武装になってしまい、初めての頃のように、イキイキと新鮮な気持ちで物事に挑むことが難しくなるんです。

朝、鏡を見るときに、この言葉を思い浮かべて、「ピチピチと生きがいい状態でいられているかな?」と、確認してみていただきたいです。

知識の鎧を脱ぎ「いつもの仕事」を初めてのようにやってみる

知識の鎧を脱ぎ「いつもの仕事」を初めてのようにやってみる

細川さん:「なんだか毎日が一緒だなぁ」「ずっとこのままなのかなぁ」と、日々にマンネリを感じているときに、「活溌溌地」は効きます!

マンネリ化しているときって、自分の知識や経験で物事をやれちゃっている状態であることが多いです。例えば、ある仕事に初めて取り組んでいたときは1時間準備をして、それでも緊張して、ドキドキしながら挑んで、終わったときは達成感もあった。でも、今ではすっかり慣れてしまい、準備なしでもOK、そのかわり達成感も特になし、みたいな……。

そして「なんかずっと同じことやってるなぁ」と感じてしまう。

経験や知識は社会の荒波から自分を守ってくれる大切な武器ですが、それによる手癖みたいなもので物事をすすめると「成長」が生まれづらくなります。それが「マンネリ」の正体です。

そんなときこそ「活溌溌地」。ピチピチしましょう。

昔、初めてチャレンジしたときのような新鮮な気持ちで、あのときの身軽さで、がむしゃらに。心を新たにしてもう一度「初心にかえって」やってみるのです。

そうすると、同じことでもイキイキと味わうことができますし、何か新たな発見があり、成長につながることもあるでしょう。

「毎日の同じこと」を初めてのことのようにキラキラしながらやってみる。新鮮な喜怒哀楽も生まれて、「飽き」がなくなったり、薄まったりすると思いますよ。

メンタルヘルスに効く禅ワード(禅語)vol.4「担雪填古井」

タイパ・コスパ疲れに効く“禅ワード”(禅語)は…「担雪填古井(ゆきをにのうてこせいをうずむ)」

タイパ・コスパ疲れに効く“禅ワード”(禅語)は…「担雪填古井(ゆきをにのうてこせいをうずむ)」

「担雪填古井(ゆきをにのうてこせいをうずむ)」の意味は?
雪を担いて古井を填める。
古い井戸を雪で埋めていく、という意味。

効率重視をしないことで見つかる答えも大切に

効率重視をしないことで見つかる答えも大切に

細川さん:合理的に考えれば、古い井戸を埋めるのであれば砂利やセメントですよね(笑)。絶対に効果的ですし、いちばん効率がいいでしょう。それは間違いのないことです。

でも、「雪でもいつか埋められる」と信じて雪を運び続けるような、純粋さも人生にはあってもいいんじゃないかと思うんです。人生において、古い井戸にとっての砂利やセメントのように、効果的なものがない場合もありますから。

「すぐに効果のあるものを」と求め続けていては疲れますし、見つからないとがっかりします。疲れたときや難しいときは「雪で井戸を埋めていく」くらいの方向転換、つまり「長い時間をかけて埋めていこう」という考え方に、シフトできたほうがいいと思うんですね。

「一生をかけて努力していこう」とか、「永遠の目標に向かって、永遠に努力していこう」という、じっくりと長いスパンで、答えを探していくことも、とても大切なことですから。

タイパ重視の詰め込み型人生は、かえってつかみづらいものになる

タイパ重視の詰め込み型人生は、かえってつかみづらいものになる

細川さん:「タイパ」という言葉が流行り始めてから、私はこの言葉をよりいっそう好きになりました。コスパやタイパを気にするのに疲れたときに、「担雪填古井」という禅語を思い出すと、一息つけるのではないか、と思います。

物事は直ぐに効果が出るものばかりではないし、「これって無駄なのかもしれない」と思うようなことでも、やり続けることで未来につながることもたくさんあります。

更に私は、「無駄かもしれない」と感じる時間こそ、より人生を豊かにしてくれるとも考えています。「意味のない時間」を人生に置いていくことは、意外と大切だと思うんですよ。

私はそれをよく、句読点に例えます。「、」「。」は100個並べたところで何ひとつ伝えられない記号です。けれど、意味のないものではない。文章に句読点があることで、読みやすくなったり、整理されたり、テンポがよくなったりしますよね

僕らの人生が文章だとしたら、「一見意味のないと思われる時間」は句読点なんです。それがあることによって、自分の生き方はより際立っていく。

タイパやコスパを優先して詰まった人生は、句読点のない文章のように、つかみづらく味気ないものになるかもしれません。

時間に追われてギスギスしてしまいそうなときこそ、「担雪填古井」です。AIだったら間違いなくコンクリートでやることを、「私は雪を選ぶ」ということの、豊かさ。美しさ。純粋さ。この禅語を知って、そんなことに思いを馳せてもらえるとうれしいですね。

メンタルヘルスに効く禅ワード(禅語)vol.5「牛飲水為乳、蛇飲水為毒」

嫉妬に効く“禅ワード”(禅語)は…「牛飲水為乳、蛇飲水為毒(牛の飲む水は乳となり、蛇の飲む水は毒となる)」

嫉妬に効く“禅ワード”(禅語)は…「牛飲水為乳、蛇飲水為毒(牛の飲む水は乳となり、蛇の飲む水は毒となる)」

「牛飲水為乳、蛇飲水為毒(牛の飲む水は乳となり、蛇の飲む水は毒となる)」の意味は?
同じ水でも、牛が飲めば乳となり、蛇が飲めば毒に変わる。
転じて、同じものでも使い方によっては薬にも毒にもなるということ。

感情を薬にするか毒にするかは自分次第

感情を薬にするか毒にするかは自分次第

細川さん「同じものでも使い方によってはよくも悪くもなる」。これは結構どんなものにでも当てはまるのではないか、と思います。例えば、人間だって水を飲みすぎれば水中毒になります。よくテレビドラマで殺人に使われるトリカブトも、少量だと薬になるそうです。

感情や欲望もそうです。例えばよいものとされている「愛」も、溺れてしまえばよくない方向にとらわれてしまいます。何事も、すべては「コントロールする」ことです。

仏教ではこのコントロールのことを「滅する」と言います。

つまり、仏教でよく言われる「欲望を滅せよ」とは、「欲望をなくせ」ではありません。「ちゃんとコントロールして、よい使い方をしなさい」という意味なんです。

「牛飲水為乳、蛇飲水為毒」という言葉は、「滅する」を思い出させてくれると思いませんか? まさに字を見るだけで立ち止まれる言葉です。「どんな感情も欲望も上手くコントロールして、自分の薬にしていこう」と思える、そんな“禅ワード”だと思います。

嫉妬は「自分に足りないものの確認」と「モチベーションUP」に使う

嫉妬は「自分に足りないものの確認」と「モチベーションUP」に使う

細川さん:嫉妬は人と比べることで生まれます。世の中ではよく「人と比べないこと」なんて言いますが、はたしてそんなことが可能でしょうか。

私は「隣のレジは早い」という言葉が好きです。並び具合、前の人のカゴの中身、レジ打ちをしているスタッフの熟練度などを見て、「こっちのほうがきっと早い!」と判断して並んだレジより、何故か隣のレジのほうが早い。そして「もう!」と思ってしまう。そんな経験、ありますよね。

「レジの速さ」なんて些細なことも比べてしまうのに、他のことを比べないなんて難しいと思いませんか? どうしても比べてしまうのが人間。まず「比べてしまうことは当然だ」と受け入れてみてください。

私も比べることを受け入れています。なので、誰かに対して羨ましいなと感じることもよくあるんです。例えば、京都の和尚様が何かやっていると、「京都はいいよなあ」、と思ってしまったりとか(笑)。

羨ましいと感じることは、嫉妬につながります。でも、それって本当によくないことなんでしょうか。

ここで「牛飲水為乳、蛇飲水為毒」を思い出してほしいのです。「嫉妬」を毒にするのか薬にするのか、それは飲み干す自分次第。

「嫉妬」も使いよう。コントロールして前向きに使い、人生を豊かにしていけばいいのです。「嫉妬してはダメだ」なんて思わなくてOKです。

私は誰かを「羨ましいな」と感じたときは、その気持ちを「今の自分に足りないもの」を探す手がかりにします。みなさんも、嫉妬を強く感じてつらいときは、「何故こんなに妬ましく思えるんだろう」と考えてみてください。

そうすると、自分が欲しいものがわかるかもしれません。努力すべきことがわかるかもしれません。そして、その妬ましいと言う気持ちを「絶対あんなふうになってやる」という日々のモチベーションやエネルギーに変える。心を貧しくする「毒」ではなく、心を豊かにする「薬」にするのです。

たとえ今、嫉妬で苦しんでいるとしても、「薬」に変えられれば、上を向いて進んでいけるはず。「嫉妬も捨てたもんじゃないな」なんて思えるかもしれませんよ。

メンタルヘルスに効く禅ワード(禅語)vol.6「「手放没深泉、十万光皓潔」

執着に効く“禅ワード”(禅語)は…「手放没深泉、十万光皓潔(手を放てば深泉に没す、十方、光皓潔たり)」

執着に効く“禅ワード”(禅語)は…「手放没深泉、十万光皓潔(手を放てば深泉に没す、十方、光皓潔たり)」

「手放没深泉、十万光皓潔(手を放てば深泉に没す、十方、光皓潔たり)」の意味は?
読み方は「てをはなてばしんせんにぼっす、じっぽう、ひかりこうけつたり」。
手を離したら深い泉に落ちてしまうけれども、周りは光に満ちあふれる。

水面に映る月は本物か? 手放せない枝は本当に必要か?

水面に映る月は本物か? 手放せない枝は本当に必要か?

細川さん:意味を読んでも「?」と感じる方が多いと思いますので、この言葉が書かれている白隠禅師絵を見ていただきたいです。これは、お猿さんが左手で枝をしっかりとつかみながら、右手で水面に映る月を取ろうとしているところです。

水面の中の月は、もちろん本物ではなく、得ることはできません。この絵では人間がどうしても抱いてしまう雑念や妄想を、水に映る月に例えて、それを真理ととらえて求めてしまう……ということを指しています。

そして、このときに枝として持っているものは「本当にしっかりとつかんでおかなければならないものなのか」ということも、この禅語は問うています。

一見大事そうに見える枝ですが、このお猿さんが、もし思いきって手を離せばどうなるでしょうか。湖に落ちてしまい、月は偽物だったということが判明します。しかし、それは悪いことではありません。

水面から顔を出せば空に本物の月があることがわかる。そしてその光が周りに満ちていたことにも気づけるのです。

目の前にある“真理”は偽物かもしれない。迷って前に進めないときは思いきって手放す。もし手放して得られるものが間違いであっても、学びや進歩、成長がある。さまざまなことを教えてくれる禅語です。

手放して、今の自分に合う形でまた持ち直してもいい

手放して、今の自分に合う形でまた持ち直してもいい

細川さん何かにとらわれて身動きができないときに響く言葉だと思います。

枝にしがみつき続けることによって、目に見える月にも飛びつけず、その月が真実でないことにも気づけず、実は空に本物の月があることにも気づけない。枝に「執着」してしまっているのです。

ここで言う“枝”は過去の成功体験や栄光かもしれません。今までのやり方を変えるべきなのに、新しいことにチャレンジするべきなのに、自分の知識や経験にしばられて、踏み出せないことは珍しいことではないですよね。

また、恋愛の場面でもよくあります。情で別れられない恋人や、別れたけれど忘れられない人など……。本当は手放して前に進むべきなのに、しがみついてしまっている関係性もあるでしょう。

そういう「進むことを邪魔する枝」を、ついつかみ続けてしまっている人が、この言葉を見て「手放す」にチャレンジできるといいな、と思います。執着を少し手放すことによって、幸せになれると私たちは信じているからです。

もちろん、「手放していけないもの」もあるので、今大切にしている「枝」を思いきって手放すのは勇気が必要です。でも、もし手放したあと「手放してはいけなかった」と気づいたなら、またつかめばいいのです。「つかんでいてもよい枝だった」とわかることも、また進歩のひとつです。

また、「一度手放して、持ち直す」ことで、今の自分にあった捕まり方ができるようになることもあります。手放したものは捨てなければならないわけではない、ということも知っておいていただければうれしいです。