フリーの編集者・ライターとしてジェンダーに関する記事や書籍に携わる福田フクスケさん。ジェンダーやフェミニズムをテーマにしたマンガ『わたしたちは無痛恋愛がしたい 〜鍵垢女子と星屑男子とフェミおじさん〜』を連載中のマンガ家・瀧波ユカリさんとのトークをまとめてご紹介します!

福田フクスケ

編集者・ライター

福田フクスケ

1983年生まれ。雑誌『GINZA』にてコラム「◯◯◯◯になりたいの」、Web「FRaU」(講談社)・「Pen」(CCCメディアハウス)などでジェンダーやカルチャーについての記事を連載中。田中俊之・山田ルイ53世『中年男ルネッサンス』(イースト新書)など書籍の編集協力も。その他雑誌やWEB、書籍などでも幅広く活躍中。

瀧波ユカリ

マンガ家

瀧波ユカリ

北海道生まれ。2004年デビュー。マンガ『臨死!! 江古田ちゃん』『モトカレマニア』(ともに講談社刊)、コミックエッセイ『はるまき日記』(文春文庫刊)、『オヤジかるた 女子から贈る、飴と鞭。』『ありがとうって言えたなら』(ともに文藝春秋刊)など。ウェブマンガマガジン『&Sofa』(講談社)にて『わたしたちは無痛恋愛がしたい〜鍵垢女子と星屑男子とフェミおじさん〜』を連載中。

瀧波ユカリさんと語る!『虎に翼』が描いた“パワーバランス”に潜む問題<福田フクスケの「やわらかジェンダー塾」Vol.1>

福田フクスケ 瀧波ユカリ ジェンダー

『虎に翼』は、“パワーバランス”に対しての解像度がすごいドラマ

虎に翼 寅子

——新連載の初回テーマは、現在放送中の朝ドラ『虎に翼』について! 編集部でも話題に上がっているドラマですが、お二人もXでよく感想を投稿されていらっしゃいますよね。お二人とも、目のつけどころが鋭くて、ぜひこのお二人で『虎に翼』についてトークしていただきたい!と思いオファーしました。お二人は、なぜこのドラマにハマったのでしょう?

福田さん
瀧波さんがすでに別のところでお話しされていることですが、主人公の寅子がいいですよね。登場したときから理知的で、口が立つ、物言う女性として描かれていました。そういう朝ドラのヒロイン像を提示したっていうのが画期的ですよね。これまでの朝ドラだと、不器用だけどひたむきで純粋で…というキャラクターがステレオタイプだったけれど、そうではない。自分の頭で考え、疑問に思ったことは口に出していくというヒロインが生まれたのは、ひとつエポックメイキングだったのではないかと思います。


瀧波さん私は“力”についての解像度がすごいドラマだな、というのがいちばんです。どこに“権力”があって、どんなことが起こっているのか、ということがちゃんと描かれている。

寅子たちが女子部で法律を学んでいたときに、みんなで法廷演劇をするというお話がありましたが、その台本の内容が、元となる事件から変えられてしまっていた。元となる事件では、犯人である女性は明確な悪意を持って犯行に及んだのに、台本では、無知ゆえに人を殺めてしまった、可哀想な女性として描かれていて…そこには男性の教授が、女性を「弱く守るべき対象」として描きたかったという意図があったのだと思うのですが、台本の改変に対しては寅子たちはなす術がない。教授たちと学生たちの間には歴然とした力の差がある。

女子部のメンバーと、寅子の親友であり兄の妻である花江、寅子の母(はる)の面々で、“自分の抱えているつらさ”について語るシーンでは、はるさんだって色々思うことがあるはずなのに何も言わないでいました。そこには“子どもたちと親”という力の差があるから。

新しい憲法が施行されたあとには、華族として力を持っていた涼子(寅子の学友)は特権を失い、そこからのリスタートを描いていたり、涼子に仕え世話をしていた玉は、ケガにより逆に涼子にケアされる立場になったりと、“力”の移り変わりを描いている。

どのエピソードでも必ずと言っていいほど、“パワーバランス”=力がどこに配分されているか、ということがカギになっていて、それを考えさせるエピソードを自然に入れているのが秀逸ですよね。

“力”を自覚することの難しさを、主人公の姿を通して問いかける

虎に翼 寅子 花江

福田さん:力を持つ者、持たざる者という描き分けだと、主人公の寅子一人を通しても、さまざまな面が描かれていますよね。寅子は女性としては差別や理不尽な扱いを受けてきた弱者ですが、恵まれた家庭環境で比較的裕福に育ってきたという意味では強者でもある。

特に、戦後になって裁判官として活躍するようになってからは、寅子は一躍時の人になり、家庭ではたくさんの家族を経済的に一人で支える大黒柱に。そうして、知らず知らずのうちに大きな力を持ってしまうわけです。

そんな状況の中で、自分より権力勾配の上にいる人に対して不平等を訴える寅子はすごくかっこいいんだけど、自分に“養われている”状態の家族たちが、自分に気を遣って言いたいことが言えなくなってしまっていることには気づけない。そんな矛盾を、一人の人物の中で描いているというのが、視聴者をハッとさせてくれた。

瀧波さん:外で働き、家族を経済的に支える側と、家で家事をしている側に“力”の差が生じるのって、現実でもよくあることですよね。ただ、それは現実の場合、働く夫と家事をする妻、という形がほどんど。

仕事の忙しさゆえに家族の不満に対して鈍感な寅子に、家族からも視聴者からもツッコミが入りました。寅子が男だったらあんなに批判されただろうか?と思います。

福田さん:もし“夫と妻”として描かれていたら、 スルーされてしまったかもしれないな、と思うところはありますね。それを女性同士でフラットに描くと、そういった性別役割分業が抱える問題というか、歪みみたいなものがより浮き彫りになってくる。

瀧波さん:あの時代の男性が家庭を顧みずに働き、妻にケア労働を丸投げし、家族から総スカンを食らうドラマがあったとしたら、恩知らずな家族だとか男性がかわいそうだとか言われるのでは。でも女性であれば厳しい目で見られる。SNSでの寅子への風当たりが強かったことは、昔も今も何かと「母親なのに」と言われる現実を反映しているようで、つらくなりました。

福田さん:視聴者も試されますよね。これが、外で働く父親だったらここまで気になっただろうか?女性だから、母親だからこれはよくないというバイアスがすごくかかっているんじゃないかって、視聴者に問い返されているようで。視聴者に自分で考えさせて気づかせる、ということまで織り込み済みの脚本がすごいなと思いますね。

瀧波さん:寅子が出世してきれいな服を着るようになっていく反面、花江は義母のお下がりの着物を着ている。そのギャップも残酷だなと思いました。

出世ってエレベーターのようなものだと思います。仕事がうまくいくとどんどん足場が上がり、遠くの景色まで見渡せるようになる。だけど、地面の高さにいる仲間たちとは目線が合わなくなり、二度と同じ景色を共有できなくなる。仲間の顔を見たくても、上からだと頭しか見えなくて表情がわからない、みたいな。

寅子と花江の場合は女性同士で、元は同じ高さに立っていたからその目線の変化が強く感じられたけれど、男女の場合は、結婚したときには足場の高さがすでに違うんですよね。最初から男性の目線が高くて当たり前。だから夫と妻だと、立場の高低差が気にならなく感じてしまう人が多いんだと思います。

福田さん人は、自分が手にしていないパワーの特権や、自分に不利な勾配については自覚できるけれど、自分が持っているもの・手に入れたパワーのそれには、やっぱり鈍感になってしまう。そのことを、主人公の姿を通して突きつけてくる描写が恐ろしいなと思いながら見ていましたね。

男性キャラクターのリアルな人物造形から、今も残る偏見や差別構造の問題が見えてくる

虎に翼 穂高教授

——戦後、法曹界に復帰して働くも、以前のように自分の考えをハッキリ言えなくなってしまった寅子が、恩人であるはずの穂高教授の言葉がきっかけで疑問に立ち向かう姿勢を取り戻しますが、言葉を投げかけたのが「穂高教授であるということが秀逸」という福田さんの投稿に、なるほどと思いました。


福田さん:穂高教授は、妊娠した女性に対する受け皿がない孤立感や焦燥感から一度離れてしまった法曹界に戻った寅子に対して「本当は働きたくないのに、無理して戻ってきた」と思い込み、その世界に連れてきた責任を感じて的外れな謝罪をしますが、寅子自身はやりたくて戻ってきている。善意から来る言葉だとしても、寅子の意思を無視してしまっています。

仕事に復帰した寅子に「お子さんは?」「お父上は君が働くことになんと?」といったような男性には言わない言葉をかけていて、無意識から生まれるパターナリズムをよく表しているキャラクターですよね。

瀧波さん:忙しいけれど、自分が社会を変えたいという願いもあり無理をして働いていた寅子がついに倒れてしまった際に、穂高教授が「君は雨垂れの一滴、君の犠牲は無駄にならない」というようなことを言って寅子の心を折ってしまいますが、それがずっと寅子の心に引っかかっていて。

穂高教授が退任する際「自分は雨垂れの一滴だった」とスピーチして、寅子はすごく憤りを感じてしまうんですよね。穂高教授は特権を持っていて、無数の雨垂れを生み出す側だった。それなのに、自分の特権に無自覚で、無邪気にそんなことを言ってしまう。

福田さん:ゴリゴリの保守だった神保教授(寅子が出会う、伝統的な価値観を重んじる男性の教授)のほうではなく、一見リベラルな穂高教授の無自覚や無理解を描くのが鋭いなと思いました。「自分は大丈夫」と思っている男性にも耳が痛い描写で、考えさせられてしまう。

瀧波さん:穂高教授は、少しそういった不気味さも感じさせる、深い人物造形ですよね。他の男性キャラクターはコミカルな要素もあって、物語を軽いタッチで進める役割も持っている。

福田さん:男性キャラクターの話だと、ドラマの放送が終了した後のTV番組で「(ドラマ内に)いい男がいなくてすみません」みたいな発言があったんですよね。それは、問題が起こったときに助けてくれて、スーパーヒーローみたいに解決してくれる男性がいい男、という基準で言ったことだと思うんですけど、そういう男性だけがいい男ではないよ、というのをドラマの中でも描きたかったのではないかと。

寅子のことを全面的に肯定してくれるお父さん、頭から水をぶっかけられてもニコニコしていられる直道兄さん、「トラちゃんがトラちゃんらしくいてくれることが僕の望みだ」というようなことを言ってくれる優三さん…そんな、善良で無害な男性たちもいい男像のひとつだよ、というのを提示してくれたなと思っています。

瀧波さん:視聴者は普通に、魅力的な男性キャラクターがいっぱいいるなと思って見ていたと思うんですけどね〜。

福田さん:そうだと思います。ただ、無害で善良だけれど、無責任な部分は結構あるなと思っていて。穂高教授は、寅子に
軽率に法学部への進学を勧めるし、お父さんも無責任に俺がなんとかするからって言っちゃうし、桂場(法学部の先生)も、「女性に法律は時期尚早だ」といったようなことを言うし、男性はみんな、下駄を履いた無責任な立場からものを言ってるというか…。善良で、無害で、寅子の理解者ではあるんだけども、決して、差別構造自体を自ら変革するようなことはしないというか…。

今の女性の立場が向上してきたのは、やっぱり女性が勝ち取ってきたものだから、そういった女性の手柄を物語の中で男性が横取りしないための、脚本上の誠実さなのかな…というふうには理解しています。同時に、個人個人が善良で無害なだけでは、それはただ差別構造に加担したままなのだ、ということを突きつけられたような気もしましたね。

瀧波さん:よくあるストーリーだと、主人公のひたむきさが、そんな男性たちの心を変える!という展開になりがちですが、『虎に翼』ではそんなマジックは起こらない。

現実と同じように、全部解決するというわけではなく、問題を残したまま少しずつ前に進んでいくのが、リアリティがありますよね。

SNSで炎上する「デートでサイゼリヤに行くのはアリか?」議論に見る、根深いジェンダー問題とは?<福田フクスケの「やわらかジェンダー塾」Vol.2>

福田フクスケ 瀧波ユカリ ジェンダー

サイゼ問題の本質は「身勝手さ」と「ジェンダーロール」かもしれない

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──SNSで年に数回盛り上がっては決着がつかない「デートでサイゼリヤに行くのはアリか?」問題。2024年夏には、サイゼリヤの会長が「デートにはちょっと違うかもね」と発言したことで、また話題になりました。しかし、議論を見ると、いまいち噛み合っていないような気がして……。ぜひ、この話題をお二人に深堀りしていただきたいです。

福田さん:僕は、年齢や性別による主張の差が噛み合わない理由なのではと考えています。サイゼリヤ問題って、みんなでサイゼリヤのことを話しているようで、実は人それぞれ違うことを議論している。大きく分けてふたつの問題を同時に話しているように見えるんですよ。

ひとつ目は、つき合いたい相手の好みも聞かずに、デート先を決めてしまう身勝手さ。これはジェンダーロール以前の問題ですね。相手がどうしたいのか聞かずに一方的に決めてしまうのは、対等な関係を築くうえで気遣いや想像力が足りていないんじゃないか、というそもそもの問題。

ふたつ目は、古くからある恋愛的価値観ですね。男性がリードして、お店を選んで、プランを決めて、女性をエスコートして、お金を支払う。女性はそれを見て、男性を見定める。みたいな昔の感覚がまだ根強く残っているというジェンダーロールの問題。

このふたつの話がそれぞれの立場によって入り乱れているような気がします。

瀧波さん:そうですね。「サイゼでデート」に何かしら感じるところがある人の立場がさまざますぎるのかもしれません。本人だけでなく、お付き合いする相手の立場もさまざまですし。みんな立ち位置がバラバラなのだから、意見もバラバラになりますよね。

女性かつ誘われる立場からのお話をすると、デートに誘われると、「何かしら考えてお店を選んでくれるだろうな」と、相手のことを適度に信頼するんですよ。そして期待もする。豪華な場所におごりで連れて行ってほしいというわけでは決してなくて、ふたりの関係性を考えてお店を決めてくれるだろうという期待です。その先がファミレスだと、少しがっかりしてしまうというのが本音じゃないでしょうか。

「サイゼで喜ぶ女性がいい!」と主張している男性は、この信頼に気づいていない、または適度な信頼にも耐えられなくなっているのかなとは感じますね。

「男性がリードする」という価値観は誰のもの?

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── 一部の男性が、女性からの「適度な信頼」に気づけなかったり、耐えられなかったりする理由はあるのでしょうか。

福田さん男性側にだけリードしてセッティングする役割が課せられていることを、男性が重荷に感じはじめているのかもしれませんね。リードする役割から降りたがっているというか。

瀧波さん:うーん……。私はそのリード文化があんまりピンと来ないんですよね。頼りがいがあるほうがいいというのはわかるんですけど、よく言われる「男性側から誘い、エスコートし、奢らなければならない」とか、「結婚指輪や婚約指輪は男性が負担する」とか、「絶対に男が一家の大黒柱だ」とか、そういう話で「男性は大変だ!」と言う人も割とまだいますよね。でもそれって20年前30年前の常識で、共働き当たり前な現代の女性にはピンとこない人も多い話です。そこにすごくギャップがあるなと。

── 「自分がリードしたい!」という女性は多くないかもしれませんが、「なんでも男性にリードしてほしい」と思っている女性はかなり減ってきていますよね。どちらかがリードするのではなく、「二人で対等に話し合って決めたい」という感覚の女性がもっとも増えている体感です。

福田さん男性が自分自身で勝手にプレッシャーを課しているところはあるかもしれません。デート相手の女性から直接何かを言われたわけではないのに、「リードしなきゃ!」と思っている男性もいそう。

サイゼリヤの話に戻ると、学生同士でサイゼリヤで仲を深めてつき合うとか、同世代で安居酒屋で飲んでいるうちに恋に落ちるとか、全然ありますもんね。なのに、そういうシチュエーションが全然想定されていない。

男性がリードする形で、年齢的にも経済的にも男性が上で、親しくなる前のデートで、女性の金銭感覚を図る……という設定がなぜか念頭に置かれているように思います。これはマッチングアプリや結婚相談所が出会いのきっかけとして普及したことがありそうですね。同意形成をしっかりできないまま、デートに行く機会が増えたので。

瀧波さん:そう、コミュニケーション不全の状態で、デートの約束をしてしまうからギャップが起きている。その理由のひとつに、男性が「お金を持ってないと思われたくない」と思っている問題があると考えています。

「おごらなければ恋愛対象から外れる」と思い込む男性もいる

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── 「お金を持っていないと思われたくない男性の問題」……。詳しくお聞きしたいです。

瀧波さん:割り勘がイヤじゃない女性でも、相手が出すつもりなのか割るつもりなのかは、あらかじめ知っておきたいですよね。けれど「割り勘ですか?」なんて聞きづらい。なぜなら相手が「お金を持っていないと思われたくない男性」だった場合にプライドを傷つけてしまうからです。

といっても、デート中に確認のシグナルを出す女性は多いですけどね。しっかりと準備したおしゃれをしてくるとか、会話の中で「今、あなたを立てていますよ」とわかりやすい発言をするとか。男性がそれを一方的に受け取るならば「支払いも対等ではなく、男性が払ってくれる」と判断する。

もし割り勘にするのならば、女性が男性を立てて、男性がそれを受け取るだけ……という関係には違和感がありますからね。

福田さん:シグナルの話で言うと、おごる・おごらないにこだわる男性は「お金を出す」ことを、「あなたを恋愛対象として見ています」という女性へのシグナルにしているんだと思います。正直、僕も「異性として見てもらいたいなら、お金を出さないといけない」という感覚はわかります。

瀧波さん:なるほど、男性としてはそこがシグナルなんですね。でもそれって結局、「お金を出せるぞ」という様を見せたいということですよね。つまり、「お金を持っていないと思われたくない男性」ということになりませんか?

福田さん:そうかもしれません。「お金を持っている」ことが「男らしさ」や「異性としてのアピール」になるという不文律を感じているからだと思います。おごらない=可能性の芽を摘んでいる感覚になるというか……。

瀧波さんそれでサイゼに連れて行って「ここで喜んでくれる女性がいい」と言っているのって、お金を持っているにせよいないにせよ、お金をなるべく出さずにすませたいと思っていて、でも「お金を持っていない(=男らしくない)」と女性に思われるのもイヤで、財布とメンツの両方を守りたいという自分の思惑を見せないまま相手を試したい、ってことじゃないかと思うんですよね。はっきり割り勘にしようと言って、降りればいいのに。OKな女性、多いですよ。

福田さん:そうですね、そこは男性が「連れて行くお店や出した金額で品定めされるのは傷つくんだよ」と素直に主張してもいいと思います。それを言えないから、「サイゼで喜ぶ女性がかわいい」とか「そんな試し行為する男性は無理」とか、本当に存在するかどうかわからない男女論にどんどんねじれていってしまう……。

瀧波さん:安いところに連れて行って、文句を言われるのがイヤなのはとてもよくわかります。ただ、「お金がないことはベールに包んだまま、安いところでなんとかしたい」というのは、ちょっと難しいのでは?と感じますね。合意の上でサイゼリヤなら全然構いませんし、合意できないならよりよい場所を二人で探せばいいと思います。

福田さん:昔つき合っていた彼女は自分よりも稼ぎが良かったのですが、彼女がお金を出している時でも、「あなたが払うフリをしてほしい」と言われたことがあったんです。女性もまた「男性がお金を出す」という役割演技をしてくれないと、異性として「萎えてしまう」という感覚があるのでは、とも思ったのですが……。

瀧波さん:そういう方もいらっしゃるでしょう。ただ、もし私がその立場だったらと考えると「男性が嫌な目で見られないように」という意味で、払ったふりをしてもらう可能性もありますね。これも男性を立てるためです。

女性の中には、男性のプライドを傷つけない工夫が染み付いてる人がかなり多いんですよね。折ってしまって痛い目を見たことや、そういうシーンを目撃したことから、人生のどこかで叩き込まれているんですよ。その相手は恋人でなく、父親や上司なんかかもしれないですけれど。

福田さん:なるほど……。相手の希望だと思っていましたが、そういうパターンはかなりありそうですね。気づかないうちに相手に気を遣わせているのであれば、申し訳ない……。

瀧波さん:福田さんのせいというわけではないんですけどね。女性も色々考えてそうなってしまっている部分はあるので……。ただ、男性のプライドを傷つけることに対して、恐れと注意を払っている女性も多いということだけは、男性の皆さんに覚えておいてもらえるとうれしいですね。

「人は、生まれ持った力に対して無自覚になりがち」ジェンダーギャップ解消のためにできること<福田フクスケの「やわらかジェンダー塾」Vol.3>

福田フクスケ 瀧波ユカリ ジェンダー

男性は「女性より身体的に力が強い」ことをどれくらい自覚している?

ジェンダー 男女 力の差

——連載の第2回では、「サイゼでデート問題」についてお話いただきました。その中で、「男性は伝統的なジェンダーロールから降りたいのでは」という指摘がありました。ジェンダー格差をなくそうという動きが活発な現在、以前と比べれば、男性もジェンダーロールから降りやすくなっているのではないでしょうか。

福田さん:世代にもよるかもしれません。「サイゼ問題」でも争点とされている、いわゆる「奢り奢られ論争」というのは、年齢層が高い人たちが主に盛り上がっているのかな、と感じることはあって、若い世代は男女ともに割り勘に抵抗がない人が増えているのではと思います。

瀧波さん:年齢だけでなく、地域や文化にもよりますよね。例えば、女性には手取り10万円代の仕事ばかりという地域は、まだまだあると思うんですよ。そういう場所で「今は男女平等だから割り勘で」というのは、少し違うかな、と。その地域では職や賃金が男女平等ではないのだから、賃金格差がなくなるまで男性が多く払うということになってしまいますよね。

地域による職種の幅の違いだけでなく、妊娠出産でのキャリアストップ、出世率など、まだ解決していない男女間の格差はたくさんあります。「男女なんて関係ない、平等だよね!」なんて、まだまだ言える世の中じゃないと思います。

福田さん:地域、年齢、文化圏でかなり異なっていますよね。もし格差がないと感じていても、「“自分がいる場所は”、男女格差がない環境なんだ」という意識を持っておく必要があると感じます。性別問わず。

瀧波さんあと、案外男性が見落としているのが「男性のほうが物理的に力が強い」という単純な差です。第2回で「多くの女性は男性のプライドを傷つけないように恐れと注意を払っている」という話をしましたが、その理由は、もし男性に力を行使されたら絶対に勝てないからだと思うんですよ。

拳を振り上げられた経験から自分の意見を言えなくなったと、DVで別居している女性が話していました。身体的な優位性がある相手ってそれくらい怖いんです。でも、時間をかけて男性にこの話をしてもいまいち実感を持ってもらえないこともあります。わかっていないフリをしているのかと思ったけれど、そんなこともなさそうで……。

福田さん:たぶんそれは知らないフリをしているとかではなく、本当にピンと来ていないんだと思います。人は、生まれ持った力に対しては無自覚になりがちです。フィジカルな力の差も、社会的な力の差も……。

瀧波さん: 「“力”を自覚することは難しい」ということは、第1回で朝ドラ『虎に翼』のお話をしたときにも出てきたテーマですよね。

福田さん:むしろ「男女平等」という意識がある男性こそ、生まれ持った身体的な力の差について無頓着になっている部分はあるのかもしれません。社会的な権利は平等だと考えていることや、自分が身体的な力を振るわないことから、「言うても対等じゃん」と思っていて、プリミティブな力の差に鈍感になっているところはある気がします。

瀧波さん:ジェンダーはジェンダー、性別は性別であり、権利が平等になっても、生物としての“力”の差というのは存在してしまうんですけどね。

自分が持つ“力”を自覚しながら、有用に使っていけばいい

ジェンダー 男女 力の有効利用

——では、力を持っている男性は、どのように振る舞えばよいのでしょうか……。その点についても、お二人のご意見をお聞きしたいです。

瀧波さん:力を持っていることって、悪いわけじゃないんです。持っている人は、持っている人だからこそできることがある。ジェンダーロールが人を苦しめていると気づいて役割から降りることと、身体的優位性を持って生まれてきたことを自覚してその力をシェアすることは両立できます。

女性同士でもやっていることですからね。私は身長が163cmあるのですが、150cmくらいの女性と一緒にいるときは、私がドアを開けたり、高いところにあるものを取ったりしますよ。力のない子どもやご年配にもそうしますよね。「男女」になったとたんに力の差が曖昧になってしまうとしたら、それはなぜなのか……。

福田さん:身体的な力の差自体が悪いわけではないですもんね。力があるところには権力勾配が生まれることを自覚しながら、有用に使っていけばいい。

瀧波さん:はい。フィジカル面だけでなく、賃金や出世率のような「ジェンダー格差」も同じだと思います。……ただ、力に自覚的でない人が多いせいなのか、男性の中で「力を有用に使う」とはどういうことかがはっきりしていないように感じます。

以前、ジェンダーや権力の話するお仕事で一緒になった30代〜60代の男性5名に「男性と女性に格差がある中で、あなたに何ができると思いますか?」と聞いたことがあるんですね、そのとき、具体的な話をする人が一人もいなかったんです。「みんなで頑張っていきたいですね」とか曖昧な言葉が多くて。

中でもいちばん驚いたのが「下手に何かしようとして女性を傷つけてしまうとよくないので、僕は何もしないことにします」という答えですね。何ができるかを聞いたのに「何もしない」になってしまうのか、と衝撃でした。

福田さん:無意識かもしれませんが、「自分の知らないところで、自分が損をしないように、勝手に問題が解決しないかな」と思っているんじゃないでしょうか。力がある側は、ない側が抱えている問題を自分ごととしてとらえづらいというのはあるのかもしれないですね。

「何もしない」では始まらない。小さくても、自分にできることを

ジェンダー 発信 SNS

瀧波さん「何ができるか」と聞いて、唯一上がってきた具体例が「傷つけないために何もしない」だったのですが、それは「できること」ではないですよね。傷つけないように気をつけるのは当たり前で、その上でできることがあるはず。ちなみに福田さんは、男性には何ができると思いますか?

福田さん:正直、心がけくらいしか思い浮かびませんが、1対1で話しているときに圧がかかっていないか、怖がらせていないかを気をつけることですかね。

瀧波さんつまり、「加害者にならない」ということですね。もちろん大事なことですが、それだけだとさっきの「傷つけないために何もしないことにします」と同じになってしまいますね。

そうじゃなくて、小さなことでも、もっとプラスに動けるところがあると思うんです。声を上げている女性に連帯するとか、荷物が重くて運べない人がいたら助けるとか。例えば福田さんのように発信できる立場なら、ジェンダーギャップについての記事を書くことも「できること」ですし。

——ジェンダーギャップを解消するために男性にしてほしいこと…と考えたときに、「SNSで男女差別の構造に反対する声をあげてほしい」「男性に絡まれて怖い思いをしている女性がいたら、男性が間に入って制してほしい」というようなことを思いつく女性も多いと思います。それに、福田さんはジェンダーについての発信をたくさんされていますが、女性からすると「男性がわかってくれる、言ってくれる」というのがとてもうれしいんです。

福田さん:そうか…そうですよね。よく考えれば、いろいろできることはあるはずなのに、なぜかそういうことではないと思ってしまいました。おそらくそういう男性がたくさんいるのでしょう。僕であれば、ジェンダーについての記事を書いていることを、「やっていること」として言えたはずなのに。

瀧波さん:「そういうことではないと思ってしまう」のはなんででしょう…?

福田さん:うーん。やっぱり自分が「力を持っている側」だという自覚がないというか、自分にはそこまでの力なんてないし、と思ってしまっていることに今気づきました。僕の中で「男」と想定しているものが、自分よりもかなり強いものなのかもしれない。男の中では弱いから、男として力を使って女性に役立つということが想像できず、「傷つけない」みたいな消極的な答えしか出てこないのかもしれません。


男性社会には、階層や経済力、能力や成果などでマウントを取り合う序列のようなものがあって、その中で下位の男性は、引け目を感じて「かなわない」「逆らえない」と思わせられる構造があるように思います。

いわゆる「弱者男性」と呼ばれる人の中には、女性の若さや容姿をある種の“力”と捉えて、「自分よりも強い/恵まれている」からと嫉妬やヘイトを向ける人がいますよね。そういう人には、自分が男性であることで持っている身体的な力の差や、社会的な力の差が、本当に見えていないんだと思います。

瀧波さん
:なるほど、そういう仕組みなんですね。でも、たとえ男性の中の比較で弱かったとしても、女性よりは身体的な“力”が強いことがほとんどだし、男性の立場だからできることってきっといろいろありますよね。第1回第2回でも、「人は自分が持つや特権性や力に無自覚」というのがキーワードになりましたね。

きっと、ジェンダー問題は、だいたいそこに行き着くんじゃないでしょうか。

——ジェンダーの格差だけではなく、人種や性的指向での差別、教育の格差など、自分が持っている“力”や置かれている“立場”を、あらゆる格差是正のために使うというのは、性別問わずできることですよね。一人一人が、自分ごととして考えたい問題です。