『男の子になりたかった女の子になりたかった女の子』松田青子 ¥1650/中央公論新社
誰かの人生を「物語」として消費しないために
過日、友人で集まりランチをしていたときのこと。そのうちひとりがおもむろにスマホを取り出しこう言った。
「ねぇこれ私の推し」
インスタにキープしている選りすぐりの投稿を見せながら、彼女は熱弁をはじめた。すると、聞いていた側も我慢ならずと、それぞれの“推し◯◯”を画面上に召喚し、インスタという沼から発掘したその存在がいかに尊く、唯一無二であるかを競いだしたのだった。
「うんうん、確かにカワイイねぇ」と相槌を打ちながらも、自分の番が回ってくるまでに、語るに足る一枚を探し出そうと気もそぞろ。スクロールしては止め、「あ、これじゃない」とまた動かし、もはや誰も人の話は聞いていない。
語りたいのは推しそのものでなく、推すに至った自分自身の物語。見せたいのは投稿そのものでなく、写真や文章から“私だけが読み取れた”物語。
〈あなたが描写してみせる私にはもううんざり〉
だから「物語」のこの一文を読んだときは、リアルに息をのんだ。短編集『男の子になりたかった女の子になりたかった女の子』に収録されている本作は、他者に物語を押し付ける者と、それから逃れようと抗う者とのバトルを描く。
SNSの普及によって、古(いにしえ)から語り継がれてきた物語とは形態が異なる、新たな物語が誕生した。それを鉤括弧付きで、「物語」と呼ぶ。思うままに事実を取捨選択でき、展開に飽きたり不都合になったりしたら途中で放り出すことさえできるこの「物語」の使い手は、自分の思い通りの物語を生きてくれる対象者を常に探している。そしてターゲットが見つかると、仮名を付けて語りをはじめる。風間行子、風間由希子、風間由希夫、風間雪夫、風間雪子、風間雪男。不幸にも見つかってしまったのは、この6名だ。
けれど当然、かれらは逃げる。姿を見せず監視を続ける「物語」に対して、声さえ上げて抵抗する。たとえば恋人とのデートの日。「物語」は風間行子に白いワンピースを選ばせるが、風間行子は頑として袖を通さない。
恋人からダイヤモンドの指輪を贈られた日。「物語」は風間由希子に幸せな結婚生活を思い描かせようとするが、風間由希子は母性だの包容力だのとレッテルの貼られた「女としての」幸福論にブチ切れる。〈あなたが描写してみせる私にはもううんざり〉。
それでも「物語」は諦めない(反省しない)。
〈割り勘なんてしていたら、女に舐められるぞ〉と、風間由希夫の行動をたしなめ、主夫を選んだ風間雪夫を〈負け犬〉といって見捨て、海外スターに熱を上げる風間雪子にいたっては、〈未婚で子どももおらず、ダブルで女の義務を怠っているうえに、自分の国の男たちを差し置いて〉と、娼婦よばわり。ひどすぎる。書いていてはらわたが煮えたぎる。
インターネットやSNSがインフラ化した現代では、ファストフードのごとく手軽に物語を享受し提供できる。ネット上に誰かが残した日常生活の断片に、想像力というスパイスをまぶせば、はい、物語のでき上がり。
語られる側に立ったとき、私たちはとても敏感だ。それなのに、自分が物語を押し付ける側になっている状況には、なぜこうも鈍感なのかと驚く。冒頭のエピソードが、まさにそれではないか。
だからこそSNSを開くときには思い出したい。
〈あなたが描写してみせる私にはもううんざり〉
リトマス試験紙のごとく傍らに置いておきたい言葉である。
1980年生まれ。中央大学大学院にて太宰治を研究。10代から雑誌の読者モデルとして活躍、2005年よりタレント活動開始。文筆業のほか、ブックディレクション、イベントプランナーとして数々のプロジェクトを手がける。2021年8月より「COTOGOTOBOOKS(コトゴトブックス)」をスタート。
文/木村綾子 編集/国分美由紀