コミカルな語り口と鋭い着眼点で、30歳前後女性の「あるある!」を発信し、SNSで大人気のコラムニスト・ジェラシーくるみさんの連載<ジェラシーくるみの「わたしをひらく」>第3回を更新! 今回のテーマは、「セルフラブ」の難しさ。自分のなかに「他人のまなざし」があるというくるみさんが、今の自分に対して思っていることとは?
コラムニスト
会社員として働く傍ら、X(旧Twitter)やnote、Webメディアを中心にコラムを執筆中。著書に、『恋愛の方程式って東大入試よりムズい』(主婦の友社)、『そろそろいい歳というけれど』(主婦の友社)がある。
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「セルフラブ」が、どうにも難しい。
よく「セルフラブ」と並列して語られる「セルフケア」はもう少し親しみやすい気がする。
セルフケアは、自分の情緒や身体の様子に耳を傾け、心身ともにヘルシーに過ごせるよう自ら働きかけることだと解釈している。
セルフケアは商業的なシーンで目にすることも多く、美容や運動、飲食、レジャー、はたまたスピリチュアルなど、色々な事業体が「セルフケア」の文脈に乗っかってマーケティング活動をしており、私も何度「自分のご機嫌とりに」と言い訳して財布の紐をゆるめたことか。
旅先で海を眺めながらぼーっとすることも、お土産にもらった入浴剤を浴槽に入れてお風呂につかることも、二次会を切り上げて早めに帰宅して眠りにつくことも、全て「セルフケア」につながるのだろう。
セルフケアが「実践」だとすると、セルフラブは「状態」だ。
私にとって、この「状態」に身を置くことが非常に難儀なのだ。
「セルフラブ」とは、ヘルシーな自己肯定感や自尊心をもち、自己効力感に満ちていて、ありのままの自分を愛している状態を指す。
各メディアの「セルフラブ」特集には、ありのままの自分を愛そう、他人と比較するのをやめよう、コンプレックスを魅力に変えよう、と難易度高めなワードが並べられている。
ありのままの自分を鏡で見てみると、まずあごにできた大きなニキビに目がいく。
ここ1カ月で2キロも太ってしまった自分が忌まわしいし、休日にやるべき家事や作業を放り出してソファで5時間も昼寝した自分が情けない。
ボディポジティブ、ボディニュートラル……様々な言葉を自分の中にインプットしたとて、それは他者を傷つける無神経さや差別的な言動の抑制にはなるけれど、自身へのジャッジのブレーキにはならない。なんだか乾いた気持ちになる。
自分の見た目にも無能さにも、こじれまくった自意識にも嫌気が差して、「ありのままの自分」を愛そうと思索をめぐらすと、どこまでが「ありのまま」でどこからが「飾った」自分なのか、境界線すらにじんでくる始末だ。
こんな自意識迷子の私が、最近、ヨーロッパ在住でアーティスト活動をしている女性と酒食をともにする場面があった。
彼女とは共通の友人を通して知り合い、メッセージのやり取りをしているうちに、日本に一時帰国している間にぜひ一杯やろう!という運びになったのだ。
(結局六杯やった)
お酒も進んだあたりで、彼女はふと、私の送ったとあるメッセージ内容に言及した。
「メッセージで普段どこで飲むのか聞いたとき『十番・広尾・六本木などのいけすかないエリアで飲むことが多いです!』って書いてたよね。
どうして “いけすかない”ってわざわざ書いたの?」
痛いところをつかれた……というか恥部を見られた気持ちになった。
アクセスのいい新宿や渋谷でもなく、赤ちょうちんの多い浅草や中野でもなく、喧騒から離れた池尻でもなく、洒脱な下町の谷根千でもなく、ガヤガヤギラギラした六本木周辺でいつも飲んでいることが後ろめたかったのだ。
実際に、港区の仄暗いバーの写真ばかりインスタにあげていた私のことを、愛あるイジりで茶化してくる知人もいた。
それを説明すると彼女は納得した様子だった。
「やっぱり他の人から嫌なことを言われた経験があったんだ。“いけすかないエリア”って言ったのは、それに対する保険なのかなと思ってたよ」
そう、保険だ。ツッコミ待ちではなく、ツッコミ予防。
こんなふうに、初対面の人と自虐含みのコミュニケーションしかできないのは、他人やメディアを通して受け取った様々な偏見や批判、冷笑を自分の中にため込み、内在化しているからだ。
他人に不快な印象を与えないよう、自分が傷つかずに済むよう、自分の内側にある「他人のまなざし」のフィルターを何重にも通してからでないと、何かを発信できない。
自分自身が他人や物事をカテゴライズしてjudgyに見てしまう分、自分の言動にも批判的にならざるを得ない。
ええいままよ、といわんばかりの勢いに乗って、私は自分の肯定感の低さや、自他ともにジャッジしてしまう悪癖、他人から言われて胸に引っかかっている言葉などをつらつら述べた。
「なるほど、自分の中に審査員みたいな他人がたくさんいるんだ」
珍しい生き物を見たかのような表情で、彼女は続けた。
「でも、友達から批判されることはないでしょう?」
たしかに、友人は私のことをまるごと認めてくれている。
私のこじれた自意識も、怠惰な部分も、虚栄心も。
私の言動を面白がってくれるし、コンプレックスのお尻や太もも、頬肉について褒めてくれたこともある。
でもそれは、友人だからだ。
長いつき合いで、心を通わせた友人だから私のことがよく見えるだけなのだ。
「でもそれは身内贔屓だから」と一言で斬ろうとする私に彼女は一言、
「身内贔屓があるなら他人マイナスもあるじゃん」。
おお、と思わず声が漏れた。
身内贔屓だからと友人からの愛情や敬意を脇に置くなら、他者や世間からのジャッジも無視するのが筋だ。
私をよく知る友人が私に5センチの下駄をはかせているなら、私をよく知らない他人は、私を5センチ地中に埋めて低く評価している。
普段目にする記事や広告の謳い文句も同じだ。
こちらの劣等感を刺激してくる過激な言葉たちを目にするとき、私はそいつらと5センチ分距離をあけなければいけない。
“身内贔屓があるなら他人マイナスもある”
彼女の言葉は、私の心を守る5センチ分の壁になるだろう。
彼女は付け加えた。
「心の中に何人も審査員がいるのって、ライターとしてはいいことかもね」
たしかに長年にわたる自意識迷子のお陰で、心のひだは増え、感情の振れ幅も大きくなった。
毎日のように他者と自分を比べ、自分のことを好いたり嫌ったりし続ければ、このこじれた自意識も資産と言っていいだろう。
セルフラブの日もあればセルフヘイトの日もある。
多分私は、セルフラブモードよりセルフヘイトモードの時間のほうが長い。
人生の7割強を占めるセルフヘイトモードの私は、鏡を見ては落ち込み、寝落ちしては悪態をつき、他人と比べてばかりでとてもダサい。
未だありのままの自分を愛することは叶わないが、脳内でわめき立てる無数の審査員たちが自分の分身である、と認めることくらいはできそうだ。
心の古傷のかさぶたをいじったり、自分に足りないものを数えたりする悪癖もまだ治りそうにないが、そのダサさも自分の性分として、今は引き受けていくしかないのだろう。
いつか自分の強みになるかもしれない、とほのかに期待しながら。
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文/ジェラシーくるみ イラスト/せかち 企画・編集/木村美紀(yoi)