コミカルな語り口と鋭い着眼点で、30歳前後女性の「あるある!」を発信し、SNSで大人気のコラムニスト・ジェラシーくるみさんの新連載<ジェラシーくるみの「わたしをひらく」>がyoiでスタート!

くるみさん自身が、日々モヤモヤしていることや自分の内面に向き合い、見えてきたものを言葉に“ひらいて”お届けする本連載、第1回のテーマは「女性同士の友情」。学生時代はなんでも話せたけれど、30代が近づくにつれ、なんとなく距離ができてしまうことも…。移ろいゆく私たちの友情について、くるみさんはどう思ってる?

ジェラシーくるみの「わたしをひらく」

ジェラシーくるみ

コラムニスト

ジェラシーくるみ

会社員として働く傍ら、Twitter(X)やnote、Webメディアを中心にコラムを執筆中。著書に、『恋愛の方程式って東大入試よりムズい』(主婦の友社)、『そろそろいい歳というけれど』(主婦の友社)がある。

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「女友達はライフステージの変化で疎遠になる」。
聞きなじみのある言葉だ。

人生がパートナーの有無・子どもの有無・仕事の有無で枝分かれしていくため、同じステータスの友人だけで集まるようになるというのだ。

私はそんな言説を耳にするたびに、それはまやかしの友情だと反発心を抱いていた。
違う職についても、違うライフステージに移っても、関係性は変わらないと信じて疑わなかった。

社会人になって1、2年目の頃は、「ウチらって全然変わんないね」「半年ぶりに集まっても結局最後同じ話してない?」「成長してなさすぎ」などと馴れ合っていたものだった。
社会に揉まれて傷ついても、まともな社会人の擬態をしていても、ウチらの芯の部分は変わらないよねと、安全地帯の枠線を確認し合うように。

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関係の様相が少し変わったのは、20代後半になり、結婚した友人たちが新たな暮らしのベースを作り始めたときだった。

共働きで与信のあるうちに家買っちゃった、と郊外に一軒家を購入した人。


夫婦ともにお小遣い制になり、友人との飲み会の頻度を抑えるようになった人。

住む場所が変われば、生活圏内に適応するようにライフスタイルも変わる。
車を買ったりペットを飼い始めたりすると、生活時間やお金の使いどころが変化し、夫婦二人で作る新しい暮らしの軸ができ始める。
地方や異国に転勤したわけでもないのに、なんとなく距離ができて会いづらくなることがあるのだな、と初めてそこで実感するのだ。

ライフスタイルの違いよりも厄介で決定的なのは、会っているときの違和感だ。

とりわけ、「母」になった友人との会合で感じることが増えてきた。
グループ内に母になった友人がいると、会う時間帯や場所が変わってくる。

もしスムーズに日時と場所が決まらなければ、だいたい子持ちの友人が「ごめん、しばらく子ども預けられないから今回は遠慮しておくね」と身を引く形になる。
無事に会えたとしても、独身子なしの私と、子育て真っ最中の友人では、互いの喫緊の興味関心テーマには、地球と銀河ほどの距離がある。

子なし勢が、飲み会にいた男の悪口を何やかんやと話している一方で、彼女は毎晩2時間おきに起こされる夜泣きや乳児湿疹について悩んでいる。
私たちは育児のハードさにおののき彼女の体調を心配するだけで、何ひとつ有益なアドバイスはできないし、彼女から見た自分たちがいかに幼稚に見えるのかというところにも考えを巡らせてしまい、自分のためにだけ生きている自分が情けなくも思えてくる。

ライフステージの違いによる分断とは、こういう気まずさや違和感、劣等感と遠慮が入り入り交じった不純物が少しずつ堆積していって、静かに距離がひらいていった末に起こるものだろう。

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だが、共通言語をいっときの間見失ったとしても、相手が大切な存在であることには変わりはないはずだ。

思い出してほしい。元はと言えば、たまたま席が前後になっただけ、たまたま配属先が一緒だっただけ、たまたま行きつけのお店が一緒だっただけ、の他人だった。
そこからお互い開示するうちに共通点で盛り上がり、相違点を面白がり、共感したり意見交換したりして親しくなっていったのだ。

私は、たとえ友人との間に共有できるテーマや言葉が見つからなくとも、昔から見てきた彼女が変わりゆく環境にどう適応し、苦難をどう乗り越えるのか、どんなことに心を動かされるのかについては興味がある。

そもそも、自分の属するコミュニティを思い出してみると、自分が常に同じモードで他者に接しているとは限らない。
むしろ、コミュニティや相手ごとに自分のキャラもコミュニケーションスタイルも少しずつ異なっている。

ある友人と話す私は相手からのアドバイスや “喝”を欲しがる甘えん坊な妹キャラだったり、ある友人の前の私は毎回相談に乗る勝ち気な姉御だったり、とあるコミュニティの中での私は、目の前の彼ら彼女らが延々とアートや文学について語るのを感嘆しながら聞くだけの信徒だったりする。

自分にとっての友人も同様に、自分の日常とはまったく別の世界を見せてくれる友人、予想だにしない視点からの解決策をくれる友人、何のためにもならない馬鹿話ばかりしてゲラゲラ笑って解散するだけの友人がいたっていいのだ。

また、互いに別の道を歩んだとしても、自分の瞳にうつる友人の変化を楽しむ、という関係もあるだろう。


私よりも2つ上の先輩は、育児真っ只中の友人と会うときは「この子って子育てにこんなに必死になれるんだ」「こんな考え方ができるようになったんだ、立派だなあ」と毎回感心するという。

赤の他人が見れば「子育てに必死な新米ママ」と一言で相手の状態を形容するだろう。だが、相手にこんな一面があったのか、相手の人生にこんな1ページが生まれるのか、という感嘆ポイントを見つけ、面白がることができるのは、これまでの友人との関係があってこそ。

話が合うか、頻繁に会えるか、とはまた別の視点から人間関係をとらえ直して楽しみを見つけたっていい。

もちろん、そのためにはなじみのない新たな彼女の表情を、楽しめるくらいの余裕が自分側になければいけない。
社会的立場や経済的なステータスを気にして、周りの人間に妬み嫉みの感情を抱いたり、自分を卑下したくなったりするのは何もアラサー特有の人間関係に限った話ではないが、変化する友人関係を楽しむためにも、自身の精神状態を健全に保つための努力は必要だ。

それが難しくて、どうしても相手と距離があいてしまいそうなときには(今きっと大変なんだろうなー)、もしくは(私は今大変だから…)と対岸から見守り合う友情だってあるはずだ。

それに、私は「女友達はライフステージが変わると疎遠になる」と同じくらいよく聞く定説を信じ続けたい。

「でも、女友達は人生のどこかでまた合流する」。

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縁とは不思議なもので、大切な人とは見えないどこかでつながり続けているという。


多感なアラサーの人間関係においては、「環境も価値観も、関係の親密性さえも移ろい変わりゆくけれど縁は切らずにゆるやかに繋がっていましょう」くらいの気分が合っているのかもしれない。

旧友たちとは、昔と変わらないことを喜ぶよりも、互いに変わったことを称え合い、寿げる関係でいたい。

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文/ジェラシーくるみ イラスト/せかち 企画・編集/木村美紀(yoi)