コミカルな語り口と鋭い着眼点で、30歳前後女性の「あるある!」を発信し、SNSで大人気のコラムニスト・ジェラシーくるみさんの連載<ジェラシーくるみの「わたしをひらく」>第4回を更新! 今回のテーマは、「誰かを“嫌い”になるということ」。“嫌い”という感情を通して見えてくる、自分の一面とは?
コラムニスト
会社員として働く傍ら、X(旧Twitter)やnote、Webメディアを中心にコラムを執筆中。著書に、『恋愛の方程式って東大入試よりムズい』(主婦の友社)、『そろそろいい歳というけれど』(主婦の友社)がある。
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「あの子、嫌いだわ」
共通の知り合いの話が出たときに、友人が言い放った言葉だ。
「きらい」という言葉の強い響き。
人間に対して使われた「嫌い」を久しぶりに耳にした私の心臓は少しキュッとなった。
彼女は、その知り合いの発言や行動の節々に傲慢さを感じるようになってしまい、連絡を断ったと言う。
連絡を断つといっても、「さようなら」と告げてSNSをブロックするわけではない。
もういい大人の私たちは、嫌な相手には無難な返事をしながら、約束を取り付けずに会話をかわし続けるだけだ。そうする間に相手も察して、相手が察したことをこちらも察して、だんだんと静かに距離があく。
「SNSで見かけるだけでも嫌な気分になるし、自分の心が狭くなったような気までするから、投稿を非表示にしちゃった」
ぽつぽつと語られた彼女の言葉を聞いて、なるほど、と思った。
相手に向けた言葉や感情は、諸刃の剣だ。相手の未熟さを睨みつけるとき、私たちは自分の未熟さとも対峙する羽目になる。
人を嫌いになる、という少し胸がざわつく現象はいくつかに大別できる。
1 生理的に嫌い
2 はっきり嫌い
3 うっすら嫌い
1は人間関係の初期、第一印象の段階で湧き出てくる感情で、それは“苦手”に限りなく近い。
相手の話し方や雰囲気、コミュニケーションや距離のとり方に強い違和感を覚え、生理的な嫌悪感が湧き出てくる場合だ。
たとえ相手に悪意がなくても、私たちは「生理的に嫌い」な人とは自然に距離をとり、積極的に関わらないようにする。
2と3は、相手との人間関係をある程度築いてからじわじわ滲み出てくる感情だろう。
2の場合、たとえば特定の誰かを差別するようなぎょっとする発言をされたり、あきらかに自分を軽んじている失礼な態度をとられたりして、「この人といると心が消耗する」とはっきり感じられる瞬間が多い。
自分の生き方やスタンスを蔑むような発言を何度かされた(ように感じた)ことで、数年の仲の友人と距離を置いたという人もいた。
相手との関係が長いと、「嫌い」の感情を抱いた自分にもショックを受けてしまうだろう。
だが粗いやすりのように心を削り取ってくるような相手とは、やすりの歯が届かない距離まで自分を動かすしかない。
顔を合わさざるを得ない職場のような環境であれば、「そういう人なのだ」と一線を引いて接する技術が重要になってくる。
「はっきり嫌い」は自分を守るために、もしくは自分を偽らずに済むために必要な感情だ。
なんとなく気に入らない、なんとなく鼻につく、なんとなく心を逆撫でされる……日々の営みで時々出会う不愉快な感情だが、この曖昧で薄暗い感情を辿っていくと、いったい自分のどこに行き着くのだろう、と。
なぜわざわざ、そんなことをするのか。
「嫌いな人がいる」ということは、「誰かを嫌いになった自分がいる」ということだからだ。
たとえば、SNSで「こんな恵まれた私」という幸せアピールをする人、ルールに厳格で常に正しくあろうとする人、はたまた面倒ごとをのらりくらりとかわすのが得意な人......。
人によって、なんとなく嫌な印象を受ける他者はそれぞれ存在するだろう。
全員に好かれる人などそうそういないように、全員を純粋に「好き」で居続けられる人もいないはずだ。
自分の中の「うっすら嫌い」を観察し続けると、分厚い衣で覆われていた不都合な本音が見えてくる。
自分に薄暗い感情を抱かせる人は、かつての「なりたかった自分」「なれなかった自分」の一部と重なることが非常に多いのだ。
天真爛漫さや鈍感さ、コミュニティ内での声の大きさなど、自分に持ち得ない性質を持っている相手のことを妬ましく感じている私が、たしかにいる。
それに気づいたとて、相手へのネガティブな感情が流れ去るわけではない。
だが「あの人、なんか嫌い」という単純な気持ちを解体してわざわざ複雑なものにしていく作業は間違いなく自己理解を深め、自分の核に近づく練習になる。
そう考えてみると「嫌い」という感情は、決して後ろ向きなものでも無価値なものでもなく、自身をフラットに見つめ直す機会ともとらえられるだろう。
「嫌い」をあらゆる角度から触り探っていくことは、それまで布で覆っていた、ちっぽけでしょうもない私を受け容れる時間にも、自分の奥底に根ざした特性や長所を認める好機にもなる。
ときには過去のトラウマや、手放してきたものと向き合うタイミングにも。
「誰かを嫌いになる」という一つの経験は、自己保身の衣を一枚はぎとってくれるような気がする。苦々しく濁った感情は、晴々しく透き通った感情よりも遥かに多くの成分を含んでいるからだ。
誰しも、丸裸の自分を自分で抱きしめなければ生きてゆけないような、そんな窮地を何度か迎えるだろう。
いつか来るそのときに向けて、自分の前でだけは衣をはぎとり、すっぴんでむき出しになれる私でいたい。
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文/ジェラシーくるみ イラスト/せかち 画像デザイン/坪本瑞希 企画・編集/木村美紀(yoi)