コミカルな語り口と鋭い着眼点で、30歳前後女性の「あるある!」を発信し、SNSで大人気のコラムニスト・ジェラシーくるみさんの連載<ジェラシーくるみの「わたしをひらく」>いよいよ最終回。ラストのテーマは、「なりたい自分に、なれている?」というモヤモヤ。子どもの頃に思い描いていた「理想の自分」とは違う、今の自分に何を思う?
コラムニスト
会社員として働く傍ら、X(旧Twitter)やnote、Webメディアを中心にコラムを執筆中。著書に、『恋愛の方程式って東大入試よりムズい』(主婦の友社)、『そろそろいい歳というけれど』(主婦の友社)、『私たちのままならない幸せ』(主婦の友社)がある。
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お風呂上がりに毎日やろうと決めた筋トレを2日連続でサボった。
理由は特にないけれど、なんとなくサボってしまった。
ふう、今日も自分との約束を守れなかった。
私はどうも“継続”とか“コツコツ”が苦手で、大人になった今でも計画通りに物事を進めることができない。
泣きながら親に自由研究を手伝ってもらい、朝顔の観察日記を妄想と嘘で埋め尽くした8月31日の自分と何ら変わらない。
今も昔も部屋の机はタスクの付箋だらけで、床にはいつ書いたかわからない付箋がサインペンの黒をにじませながら落ちている始末。
“コツコツ”が得意な友人に聞いたことがある。
彼は部活も勉強も仕事も、コツコツ頑張って着実に成果を残すタイプの人間だ。
「努力を続けた先に何があるのか、考えて虚しくなることない?」
「そんなのは頑張り続けた人にしかわからない。
でも俺は、死に際で『もっと頑張ればよかった』って思いながら死にたくない」
そうか、死に際で後悔するのはたしかに嫌だ。
でも果たして私は、あのとき頑張れなかった、と人生を悔やむだろうか。
マイペースに過ごせたいい人生だった、とニヤニヤしながら逝くかもしれないじゃないか。
昔の自分が今の自分を見たら何て言うだろう、とよく考える。
花丸はつけないかな。
おつかれ、くらいは言うかもしれない。
「もっと上に行けるはず」と憤怒するのか、「まあこんなもんか」と納得するのか。
花丸の人生とそれなりの人生、その2つに序列はあるのか。
少なくとも今の私は、仕事もプライベートもバリバリ猛進して幸せな人生!と昔に思い描いていた粗い理想像とはほど遠い。
30歳までには、とぼんやり考えていた転職も独立も海外居住もしていない。
大きな窓がついた3LDKの家にも住んでいない。
すまん、私は仕事を好きになれるタイプの人間じゃなかったわ、と告げたら昔の私はどんな風に顔を歪めるだろうか。
怠惰極まる私でも、ここ最近、二週間ほど公私ともに忙しい時期があった。
夜遅くまで仕事をして、休日も寝るか考え事をするかで精一杯。ご飯はもっぱらコンビニサラダとレトルトカレー。
床にあぐらをかいてラー油とニンニク入りの卵ご飯をかきこんだ夜。
疲労を感じているのになかなか寝付けず、ベッドの上で大型犬のショート動画を永遠にスワイプし続けた。
その多忙キャンペーンの時期が終わり、久しぶりにドラッグストアで買い出しでもしようと思って家を出た日曜午後のこと。
扉を開けた瞬間に、私の全身はもったりした湿っぽい空気に包まれ、まぶしい緑の匂いが鼻腔から脳に突き刺さり声が出た。
空気の濃さにくらくらしながら外階段の隙間から空を見上げ、私の体の外で季節がちゃんと進んでいたことに驚いた。
心にゆとりができるとこれほど感覚が研ぎ澄まされるのか、と小さな感動を覚えると同時に、多忙という大敵に私の全感覚が奪われてしまっていた事実にも気づき、恐ろしくなった。
そういえば、心を亡くすと書いて「忙」。なるほど、漢字の成り立ちも馬鹿にできないものだ。
なりたい理想の自分になるためには、やりたくないこともやらなきゃいけなくて、でも私は「やりたくないこと」を続けるのが無理な性格のようだ。
多少のやりたくないことを、「必要だから」と心に麻酔をかけて耐えられる人がいる。
息をするように、コツコツ頑張り続けられる人もいる。
嫌でしょうがないのに不条理な状況で踏ん張るしかない人もいるだろう。
ただ、私の麻酔期間は3日程度が限界で、仕事でもプライベートでも「今やりたくない」ことを続けていると肉体感覚と心を亡くしてしまうみたい。
あーあ体力気力に満ちあふれた、もっとキャパの広い人間だったらなあ。
四則演算を入力しないと鳴り止まないアラームアプリの警告音ではなく、やわらかな日光を浴びてすっきり目覚められたかも。無惨な姿になった惣菜の食べ残しではなく、白湯と一緒にカットフルーツをごろごろ入れたヨーグルトを食べていたかも。
剥がれかけた付箋だらけの机ではなく、一輪挿しを飾った机で仕事していたかも。
スキマ時間で不貞寝をする女ではなく、ジムにさくっと行って背筋を鍛える女性だったかも。
でも、現実の私は理想の私と違いすぎるわけで、私は現実の私と一緒に生きていくしかないのだなあ、と思うばかり。
そう考えてみると、見直すべきは「今いる自分」ではなく、過去に設定した存在しない「理想の自分」のほうではないだろうかと思えてくる。
高い目標から逆算して小さなtodoに一つひとつチェックを入れていく人生こそが賢く、後悔せずに済む唯一の生き方だと思ってきたが、どうやら間違っていたようだ。
“なりたい自分”と“今ありたい自分”が大きく乖離しているならば、毎日、毎時間毎分、どちらの自分に従うべきかを心に決めて、行動や思考をチューニングし続けるほうがよっぽど賢い。
理想だとか、充実だとか、幸せだとか。
そういう煽動的な言葉に惑わされず、しばらくの間は快・不快という正直な体の反応にしたがって生きていきたいのだ。
コツコツ頑張って自分をアップデートしたり、人生に劇的な変化を求めて努力をしたり、そんなご立派なことよりも、私には大事なことがある。
日々のトラブルやタスクに流され失いかけた「感覚」をこの手に取り戻すこと。
やる気が地に落ちて自分のエネルギーが底見えしたら、ああ今日は生きるだけの一日だ、と自分をいたわること。
先週末の私も、ひどいものだった。昼過ぎに起き、予約していたキックボクシングの枠をキャンセルし、ポップコーンを袋から直食いしながらドラマを五時間ほど見て、夕陽を足の裏で受け止めながら惰眠を貪る。家にあった雑多な野菜と豚バラを茹でたり炒めたりして、名もなき料理を量産し、ラップで包まれたいびつな形のご飯をチンしてカロリーを体に取り込む。
それでも生きているのだから、豚の脂の甘みを楽しめるのだから、十分だ。
なりたかった自分との距離は相変わらず遠いけれど、好都合なことに「それでもいいや」と認められるようになってきた。逃げでも甘えでもいいから、そうやって折り合いをつけていく技術が今後は必要なのだろう。
年を重ねることは、自分との付き合いが長くなるということで、それは理想の自分とあるがままのしょうもない自分との歴戦を間近で眺めることでもある。
別に自分との約束を破る日があってもいいし、そんな日が続いてもいい。
ゆるやかに自分を裏切り続けると、自分を信じられなくなり、むしゃくしゃしてくるのだが、本当に信じられないのは今の自分ではなく勝手に約束をしやがった過去の自分のほう。
今の私だけが現実で、本物だ。
昔に描いた“理想の私”に、今の私を消費されたくない、という気さえしてくる。
私は死に際で何を思うだろう。
前日に炒めた豚バラの甘みを思い出すのかもしれない。
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文/ジェラシーくるみ イラスト/せかち 画像デザイン/坪本瑞希 企画・編集/木村美紀(yoi)