「ネガティヴ・ケイパビリティ」という言葉をご存知ですか? 「モヤモヤをすぐに解決せず、そのままにしておく力」と言われ、現在、この概念が注目され始めています。なぜ今、この力が必要とされているのか、そして「ネガティヴ・ケイパビリティ」の新しい可能性について、著書に『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)を持つ、哲学者の谷川嘉浩先生にお話を伺いました。

谷川嘉浩

哲学者

谷川嘉浩

1990年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。現在は京都市立芸術大学デザイン科で哲学、教育学、文化社会学の専任講師を務める。『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)、『スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)等、著書多数。

「ネガティヴ・ケイパビリティ」とは?"モヤモヤを解決しない力"が必要な理由

モヤモヤをそのまま心の棚に置いておき、余裕があるときに取り出して考える

ネガティヴ・ケイパビリティ 哲学者 谷川嘉浩 モヤモヤをそのまま心の棚に置いておき、余裕があるときに取り出して考える

谷川先生:「ネガティヴ・ケイパビリティ」は、立ち止まって考える姿勢のこと、モヤモヤを抱えておく力のことです。確かに「ネガティヴ・ケイパビリティ」は、問題解決とは対照的な能力です。ただ、このせわしない現代社会では、むしろ重要になることだと私は考えています。

日常の業務や家事では、即座の反応が求められます。時間内に作業を完了させなければならない。そういうとき、これまで通りの問題解決の手段、パッと思いつくアイデアによって事を済ませますよね。でも、それでいつもうまくいくわけではないから、暮らしというのは厄介なわけですよ。人間関係のトラブルも、仕事の問題も、家庭の問題も、予期せぬことはいつでも起こりうる。そういうとき、新たな考え方や方法で取り組まないといけないかもしれない。

では、どうするべきか。一方では、その場を何とか収めながらも、他方では、「なんか違ったな」という違和感を消さずに心の棚に取っておくんです。そして余裕があるときにモヤモヤを取り出して、「なんで引っかかったんだろう」って後からゆっくりと考えればいい。これが、ネガティヴ・ケイパビリティのひとつの形だと思います。そう聞くと、忙しい現代人にもネガティヴ・ケイパビリティが必要な理由は理解してもらえると思います。引っかかりを無視しない力なんですよね。

言い換えると、ネガティヴ・ケイパビリティは、自分がわかったと実感したときに、「いや、違った見方もできるんじゃないか?」「もしかして理解した気分になっているだけでは?」とツッコミを入れられることなんです。自分の納得を疑い、揺らすことができるかどうか。

つまり、「ネガティヴ・ケイパビリティ」は、「わからないことを安易に解決せず、違和感に向き合い続ける力」のことなんです。

これまでにない手札を増やせるのが、「ネガティヴ・ケイパビリティ」の創造性

これまでにない手札を増やせるのが、「ネガティヴ・ケイパビリティ」の創造性 哲学者 谷川嘉浩

谷川先生:問題解決モードのとき、私たちは自分の手札の中から有効そうなものを選ぶ、という発想になりがちです。私もこの取材の直前に「プロフィールのテキストを早く提出してください」という連絡が来て、考えている時間がなかったので、過去のプロフィールを流用しました(笑)。

このように、日常で使っている素早い問題解決は「すぐに出てくる手頃な判断、考え」でしかありません。この方法で、判断の速度は確保されますが、手札が増えることはありません。似たような手札を切り続けると、かつてあった手札を失うことすらあります。

でも、ネガティヴ・ケイパビリティを発揮する時間、つまり、立ち止まって問題や違和感に向き合う時間を持つことができれば、「そもそもこれって問題なのかな」「実はこっちのほうが問題かもしれない」と課題のコンテクストを再定義(=リフレーミング)したり、あるいは、これまでなかった解決手段(手札)を探したりすることができます。こういう意味で、立ち止まる余裕は大切だと思います

「考えるしかない」時間が、自分を育てるチャンス

ネガティヴ・ケイパビリティ 「考えるしかない」時間が、自分を育てるチャンス 哲学者 谷川嘉浩

モヤモヤに向き合うと疲れますよね。特に人間関係のモヤモヤ、自分の生き方についての違和感に直接触れると、苦しくなることもあるでしょう。心の柔らかいところに触ることになるので。

そういうときは、「考える余白になる“何か”をひとつ噛ませる」方法をおすすめします。やりやすいのは、映画や演劇、コンサートなどの劇場型の娯楽ですね。これは二重の意味でいいんです。暇つぶしにスマホを触ることはできませんし、2倍速にもできません。でも、途中退場はちょっともったいない。劇場型の娯楽は長いので、最初から最後まで全集中するわけにいかないから、観ながら連想的に別のことを少しは考えますよね。だから、何かについて考えることに時間を費やすほかない「脱スマホ時間」が得られる。これがひとつ目のメリットです

もうひとつは、主題が自分の悩みやモヤモヤに関係しているときに得られるメリットです。例えば是枝裕和監督の映画は、いつも「家族」に焦点が当たります。家族について悩みのある人は、物語の登場人物たちについて色々考えることを通して、結果的に自分の悩みについて考えられるかもしれない。つまり、物語や娯楽が自分とモヤモヤのあいだのクッション材になってくれるんです。あまり深刻にならずに考えたいときには、ちょうどいいやり方だと思います。

そういえば、『何もしない』という本を出版しているアメリカのアーティスト、ジョニー・オーディルという方が、「見逃すことが大切だ」と言っていたんですが、これはとてもいい考えだと思いましたね。余白を生み出せるひとつの技です

この方法のよいところは、情報を得つつもリアルタイムの渦には巻き込まれないことです。少し距離を置いて情報を受け取ることで、考える余白が生まれる。「当時なんでこのニュースを追いかけていたんだろう?」といった、ネガティヴ・ケイパビリティ的な思考のきっかけを作ってくれたりもします

現代はスマートフォンやSNSが私たちの余白や隙間をつねに狙っています。刺激と情報が反乱する中で、「考えること」だけに取り組むのはとても難しい。

だから、情報の波から離れ、「あえて見逃す」ことを心がけ、余白を作ることが重要です。そうすれば、モヤモヤを取り出して、泥臭く考え続けることができるでしょう。きっと新しい手札が見つかりますよ。

スマホによる「常時接続」がもたらす変化と「ネガティヴ・ケイパビリティ」の新しい可能性

SNSはジャンクなストレスコーピング。本質的な解決には結びつかない

ネガティヴ・ケイパビリティ 哲学者 谷川嘉浩 SNSはジャンクなストレスコーピング。本質的な解決には結びつかない

谷川先生:スマホを使うということは、情報や刺激の濁流に身を置くことです。特にSNSなんて、様々なコンテンツが驚異的な速さで流れてきますよね。そして、関心がなくても無意味にそれを見てしまうことも多い。

さまざまなジャンルの動画が数十秒で切り替わっていくショート動画は、うすーく楽しい刺激です。認知のリソースそこまで使わなくてもいい代わりに得るものは少なく、暇だけつぶして通り過ぎていく

しかし、これは現代で選ばれやすいジャンクなストレスコーピングのひとつだと思います。注意を分散すればするほど、ひとつひとつのことに集中しづらくなり、「ちょっとした酩酊状態」になれるんですよ。この状態でいると、心の中の不安やモヤモヤから注意を逸らせます。

「ちょっとした酩酊状態」になることは、意識を消して手っ取り早く自分の不安を払っている状態です。熱があるから解熱剤を飲むみたいな対症療法で、これは根本原因に向き合うようなやり方ではない。対症療法も別にやってかまわないんですが、「ジャンクな刺激」で不安から注意を逸す以外のやり方ができないと困る。本質的な意味で不安を受け止めることができないままですし、解決には至らないからです

<寂しさ>とは、他者がいるのにつながれない状態に感じるもの。<孤独>とは別物です

<寂しさ>と<孤独>の違いのお話をしたいと思います。ハンナ・アーレントという哲学者の定義を引用させてください。

彼女は<寂しさ>を人に囲まれているときに感じる感情だと言っています。他者がいるのに、その他者とつながれない状態に感じるもの、ということです。そして現在はその<寂しさ>の物理的な距離が広がっています

常時接続によって、「遠くで誰かがワイワイやっている」ところをいつでもどこでも見ることができるようになりました。その結果、身近ではない盛り上がりに対しても「取り残されている気がする」と感じてしまう。物理的に距離のある<寂しさ>も生まれてしまったんです。

この<寂しさ>とは、まわりから取り残されることへの恐れです。ハンナ・アーレントは<孤独>を「自分自身と過ごしている状態」のことだと言っています。この孤独の時間は、「一人の中に二人いる」だとも表現されるんですね。これは、自分の中にいくつかの自分がいて、その自分たちと過ごす……という意味です。二人と言わず、何人いてもOKだと僕は考えています。

シンプルに言うと「心を分ける」ということです。

<孤独>の時間が圧倒的に足りない、常時接続の時代

ネガティヴ・ケイパビリティ 哲学者 谷川嘉浩 <孤独>の時間が圧倒的に足りない、常時接続の時代

例えば「仕事中の自分」「家族と過ごすときの自分」「友達といるときの自分」などの自分を区別するということ。漫画表現であるみたいに、自分の中の「天使と悪魔」みたいなイメージでも、「本音と建前」でもいい。要するに、私たちは心の中に無数の自分を持っているんです。その自分たちをすべて別人として分ける。「心を分ける」とは、自分を一枚岩と考えずに、群衆としてとらえることです

『株式会社 自分』と考えるといいかもしれません。社内では、いろいろな立場の自分が異なる意見を持っている。そのような立場や意見の異なる自分を分けて考え、その自分たちと一緒に過ごし、対話する。それがハンナ・アーレントの言うところの<孤独>です

しかし、常時接続時代のせいで、私たちにはこの<孤独>の時間が圧倒的に足りていないんですよね。余白の時間があると、すぐに誰かや何かとつながってしまう。スマホによるジャンクな刺激によって<孤独>のための時間を奪われているように感じます。

私たちはスマホに慣れすぎていて、「SNS上の自分」をかなり発達させているところがあります。なんとなく世間受けしそうな、「誰でもない誰かの期待」を内面化してしまっているのが「SNS上の自分」です

スマホ時代を経たからこその「ネガティヴ・ケイパビリティ」

スマホ時代を経たからこその「ネガティヴ・ケイパビリティ」 哲学者 谷川嘉浩

スマホがなかった頃は、確かに通知や刺激は少なかったけれど、そのぶんアクセスできる価値観も少なかった。例えば「女性は教育を受けたらお嫁に行けない」みたいな世界で生きている人が「そうじゃないよね」という価値観にたどり着くことが難しい時代だったと思います。

でも、常時接続により情報がどんどん流れてくる時代になった結果、私たちは多様な価値観に気軽にアクセスできるようになり、選択肢が急速に広がっている。「他の生き方もある」と気づきやすくなったのは、やはりスマホやSNSの功績です。そういうときにこそ、迷いや悩み、モヤモヤが生じる余白が生まれます

現代の情報の濁流の中で得た知識や価値観をベースに、<孤独>の中でいろいろと考え、想像していく。つまり、SNS以降の多様な価値観を前提に、ネガティヴ・ケイパビリティを発揮しようとするのが望ましいでしょう。今日の日本社会で、メンタルヘルスの分野で「ネガティヴ・ケイパビリティ」という言葉が注目されはじめたのも、スマホが生活や人間の在り方に大変な影響を与えているからこそだと思います。無数にある情報の中からあたかも自分のことを指しているような言葉を見つけてそれを自分だと思い込むような「自己の単純化」ではなく、得た情報を<孤独>の中で思考に使い、自分の力で新しい自己を探っていくこと、世間に合わせた自分ではない可能性を掘り下げること。それが常時接続に飲み込まれず生きるためには必要だと思います。
 

イラスト/林めぐみ 取材・文/東美希 画像デザイン・企画・構成/木村美紀(yoi)