今週のエンパワメントワード「毎朝 日常という劇場の幕が上がる」ー『ダゲール街の人々』より_1

『ダゲール街の人々』
U-NEXTにて配信中 ©1975 ciné-tamaris

アニエス・ヴァルダが見つめた“日常”の美しさ

料理をする。商品を仕分けし棚に並べる。服を縫い繕う。どんなものであれ、一心に作業をする人の手の動きは美しい。だから映画の中で人の手作業を見ると、それだけでうれしくなってしまう。

そんな手作業の美しさをたっぷりと楽しめるのが、アニエス・ヴァルダが1975年に監督したドキュメンタリー映画『ダゲール街の人々』。撮影が行われたのは、パリ14区のダゲール街(通り)。2019年に亡くなるまで50年近くダゲール街に暮らし続けたヴァルダは、この街で商売を営む小売店の人々にカメラを向け、日々の仕事風景と彼らの人生を丁寧に映しとる。

いかにも下町らしいこの街には、香水店、ベーカリー、精肉店、理髪店、仕立て屋など、小さな商店がずらりと並び、朝になると開店準備をする人々が道にあふれ出す。そのいつもの風景に、ヴァルダ自身のモノローグが重ねられる。〈毎朝 日常という劇場の幕が上がる〉

パン職人は、みごとな手つきで生地をこねて成形し、発酵した生地を火のついたかまどの中に軽々と放り込む。そうして焼き上がったパンを店先に並べ、次々にやってくる客へ手渡すのは妻の役目だ。近くの精肉店では、主人が注文通りに肉を切り分け、筋切りをし、紙に包んで「さあ、どうぞ」と客に差し出す。精肉店の妻が通う理髪店では、理容師がおしゃべりをしながら客の髪を切り、パーマをかけ、最後の仕上げをしてくれる。てきぱきと仕事をこなす彼らの手は、これまでに何百回、何千回と続けてきた同じ動きを繰り返す。

それはどれも日常の中の何気ない動作で、普段目にしても、きっと何も感じず通り過ぎてしまうはず。でもカメラを通して映されたとたん、滑らかで美しいその手つきはまるで何かのショーのように輝き出し、うっとりと見惚れてしまう。

映画には、ダゲール街で開かれたマジックショーの様子も挿入される。面白いのは、彼が次々に行なう華麗なマジックが街の人々の手の動きと重なり合い、それ自体がひとつのショーを形作っていくこと。「さあこれを私の体に刺してみましょうか」とおおげさな様子でナイフを振り上げたマジシャンの手と、牛肉の塊に包丁を突き刺す精肉店店主の手とが交互に映され、数えるごとにお札の数が増えていくマジックは食料品店のレジでの様子と重ね合わされる。

マジックショーと店での日常が重なるのを目にするうち、最初に耳にした、ヴァルダの言葉を思い出す。〈毎朝 日常という劇場の幕が上がる〉。なるほど、ここは確かに〈日常〉という名の劇場で、街の人々や店先に並ぶ食べ物や品物が定番の演目を披露し、観客をどっと沸かせてくれる。夜になれば幕が下り、朝が来ると再び幕が上がる。そうしてショーは続いていく。

この映画を見ていると、日常こそが何よりも楽しく華やかなエンターテインメントかもしれないと思えてくる。だって、ここに映る人々の顔や声、手の動きは、どんなフィクションよりもわくわくする物語を私たちに届けてくれるのだから。彼らは、自分がどこで生まれ育ち、どんなふうにパートナーと出会い、今の店を構えたか、これまでの人生を語ってくれる。その話もまた、立派な小説や歴史物語以上に私たちを楽しませ魅了する。〈日常という劇場〉は、私たちのすぐ近くにある。それに気づかせてくれるのが、映画のカメラなのだ。

月永理絵

編集者・ライター

月永理絵

1982年生まれ。個人冊子『映画酒場』発行人、映画と酒の小雑誌『映画横丁』編集人。書籍や映画パンフレットの編集のほか、『朝日新聞』 『メトロポリターナ』ほかにて映画評やコラムを連載中。

文/月永理絵 編集/国分美由紀