2023年は、長く続いたコロナ禍から解放され、リアルなコミュニケーションの場が増えた年でした。楽しかった反面、少し疲れを感じている人も多く、心の揺れ幅に戸惑うこともあったかもしれません。そんな皆さんに、2024年に向けてぜひ心に留めておいていただきたいのが、「禅」の考え方。日々のストレスや心の揺れ幅と上手に向き合える環境を整え、自身のポテンシャルを解放し、より自分らしく、豊かに生活できるようになる——「禅」を通して生き方を豊かにすることを追求している僧侶・伊藤東凌さんに、私たちが日常生活に取り入れられる「禅」の考え方を教えてもらいました。

僧侶・伊藤東凌 京都・両足院 禅

僧侶

伊藤東凌

臨済宗建仁寺派 両足院副住職。1980年生まれ。建仁寺派専門道場にて修行後、15年にわたり両足院での坐禅や写経体験などの指導を行なう。いち早く寺院にヨガや美術のイベントを取り入れ、自ら田畑を耕し、食生活や暮らしに禅を取り入れるプロジェクトの実践など、禅の教えを広く積極的に発信。現代における仏教やお寺のあり方を問い続けている。アメリカFacebook本社での禅セミナーの開催やフランス、ドイツ、デンマークでの禅指導など、インターナショナルな活動も。禅を暮らしに取り入れるアプリ「InTrip」をリリース。著書に『忘我思考 一生ものの問う技術』(日経BP)など。

禅や坐禅は宗教というよりも「メソッド」

——東凌さんは、京都にある建仁寺の塔頭、両足院の副住職でありながら、現代アートのキュレーションをしたり、メディテーションアプリ「InTrip」(https://in-trip.net/)の開発をしたり、ファッションブランドとコラボレーションしたりと、現代的な幅広いアプローチで禅の思想を伝えている活動をされています。なぜそのような活動をされているのか、東凌さんが伝えたい「禅」とはどんなものなのか、改めて教えていただけますか。

東凌さん:両足院は臨済宗という宗派のお寺です。いわゆる禅寺と呼ばれるお寺で、その修行のひとつが、皆さんもご存じの坐禅です。ただ、禅や坐禅についてはそこに信仰の要素が介在しない、もはや宗教というよりも、自分自身で閉じ込めてしまっていたポテンシャルを解放するために、その蓋や鍵を外すための「メソッド」のひとつだと考えています

私は自分の活動を通して、いわゆる伝統的な禅や仏教的な世界観を押し付けたり、皆さんに仏教を学んでもらおうとしているわけではありません。坐禅だけでもいいし、写経だけでもいいし、お寺に展示されているアートを見に来るだけでもかまいません。あくまでもその人自身が受け取った内容をどうすくい取って、どう人生に取り入れるのかは自由だと考えています

自分を表現することで可能性を取り戻す

僧侶・伊藤東凌 京都・両足院 禅 日本庭園

——数年前から「マインドフルネス」という言葉が世界的に広まり、禅や坐禅もそこに通ずるものとして、よりハードルが下がったように思います。

東凌さん:そうですね。アプローチのしかたは少々異なりますが、自身の感覚を研ぎ澄まし、気づきを高める…香りを嗅いだり、音を聞いたり、肌で感じたり、五感を解放して感じることに集中する時間をつくる、という意味では重なる部分があると思います。

違いとしては、禅では「問い」と向き合うことを大切にしています。坐禅によって五感を解放し、問いと向き合い、問題の本質に意識を向ける。私はそれを伝統的なスタイルにとらわれず、現代の人たちに響く形で提供することを模索しています。その方法のひとつがアートであり、デジタルであり、ファッションであってもいい。現代的な方法を通して知的・感覚的刺激を受けてもらうことで、より感覚を解放しやすくしてもらいたいと考えています。

——特に両足院では、現代アートとのコラボレーションを積極的に行なっています。禅にアートを取り入れる理由はなんでしょうか?

東凌さんアートというのは「表現」ですよね。表現というのは、自身の中にあるものをアウトプットしてみて、それが受け取った人にどう響くのか…そんな自分の可能性を表出させるということだと考えています。

私は、誰もが「自分は表現者だ」と思って生きていけることが理想だと思うのです。多くの人は、知らぬ間に大多数の人と意見がズレていない、ということに安心感を覚えますよね。特に、日本はその傾向が強い。しかし、本当にマジョリティというものは存在するのでしょうか?

実は、マジョリティだと思われていたものはもはや「幻想」ではないかと思います。大抵の場合、「多数派の意見」というのは、「昔からこうだった」とか「そう教わった」「常識的に」といった考え方にひもづきます。しかし現実はもっと早いペースで変わっていて、その考え方ではもうピントがあわないということが往々にしてある。ならばそんな幻想は捨ててしまい、人はみなマジョリティではなくマイノリティなんだということに誇りを持って生きていけるほうが強いですよね。

アーティストたちは、それを自覚したうえで、もしかしたら評価されないかもしれないし、なんだったら批判されるかもしれないし、いわゆる“マジョリティ”からマイノリティの烙印を押されるかもしれないけれど、自分たちを表現し続けています。その生き方や姿勢を目の当たりにしたとき、勇気づけられ、自分の中にあるものを表現していかなければという気づきを得られるのではないかと思うんです。

表現とは必ずしも作品を作ることではありません。坐禅を通して自分の中にある声に耳を傾け、どう感じたかを言葉にしてみるだけでもいい。自分を出すことで、可能性を取り戻す——アートや禅がそのきっかけになればよいなと思います。

「無」になるとは無くすのではなく、受け入れること

——実際に東凌さんのもとで坐禅を体験させていただいて、自分の中にあるものがクリアになって出てくるような感覚を得ました。これまで坐禅は静かに「内省」するための時間だと思っていましたが、東凌さんは、自分の雑念を消す必要はないとおっしゃった。そのおかげで最初はいろんな感情が湧き出てきました。

東凌さん:仏教ではさまざまな事象の関係によって自分やモノゴトが存在している、成立していると考えます。そのことを明確に気づくために心の偏りから脱出して「無」の状態であろうとするのが禅の思想です。この「無」とは「何も無い」ということでなく、有無、自他、善悪といった相対的な思慮分別を離れた状態です。

「無」に近づくためには、まずは自身のさまざまな感情を受け入れること。「こんなことを思ってはだめだ」とその感情と戦ってしまうのではなく、「自分はこう感じる」という無数の感情の存在を認めたうえで、鈍行列車の車窓を流れゆく景色を眺めるように、感情の変化をただ眺めればよいのです。

「自分にとって心地いいのは何か」を自分に問う

京都・両足院の副住職 伊藤東凌 禅

——さまざまな感情が押し寄せてきたところで、呼吸の整え方や感覚への集中方法を教えていただいたことで、だんだんと自分の感情から聴覚や臭覚のほうに意識がいくようになりました。最終的に「ああ、こんなに鳥の声っていろんな種類があるんだ。草木の香りだけでなく、お香の香りもするな。あれ? 私は何に悩んでたんだっけ?」と、悩みから解放された感覚になりました。

東凌さん:いいですね。普段意識が行き届いていないところにまで意識がいくことによって、自分自身の感じ方、感情の向かう先も変わったのではないでしょうか。そうして、自分をすみずみまで感じられるようになれば、少しの体調の変化もわかるようになっていくはずです。

朝の自分はこういう状況だから午前中は少しゆっくり過ごそう、今日は重要なミーティングがあるから午後はパワフルに頑張らないとなど、自分の心と体の状態を感じながら、調えていってほしいのです。

禅では、「整える(ととのえる)」ではなく「調える(ととのえる)」という言葉を使います。整理整頓するような整え方ではなく、チューニングというニュアンスが強い。「整える」だと、どうしても「何をすべきか」が強くなりますが、「調える」は「今日はどれが心地いいのか」という「問い」を優先させるイメージです。

——まずは自分の「心地いい」を探していくのが、禅の思想や坐禅を取り入れるということなんですね。それが自分でチューニングできるようになれば、毎日が豊かになる気がします。

東凌さん:普段の生活の中で、何か決められたことをやらなければいけない、という外的な要因に動かされてしまうことが少なくないと思います。そこでもし、自分を中心に据えて、自分の心地いいを基準に調整することができるようになれば、自身の可能性を広げていくことにもつながるはずです。

▶︎後編ではさらに、日常に「禅」を取り入れる具体的な方法を教えていただきます。

撮影/コイケマコト 取材・文/千吉良美樹 企画・構成/木村美紀(yoi)