『自分とか、ないから。 教養としての東洋哲学』というインパクト大のタイトルで、話題になっている本の著者、しんめいPさん。著書の中で“劇薬”と称する東洋哲学とは一体何? なぜ人生の悩みに効くの? 難解な東洋哲学を軽いタッチでわかりやすくひもとくしんめいPさんならではの言葉でわかりやすく解説してもらいました。
東大卒・元芸人・作家
東京大学法学部卒業後、大手IT企業に入社するも退職。その後地方に移住し、教育事業をするも退職。一発逆転を狙って芸人として「R-1グランプリ」に出場するも1回戦で敗退し引退、無職に。同時に離婚も経験し、引きこもって布団の中にいたときに東洋哲学に出合い、衝撃を受ける。そのときの心情を綴った「note」が話題となり『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』(サンクチュアリ出版)を出版。
東洋哲学ってそもそも何?
──『東洋哲学本50冊よんだら「本当の自分」とかどうでもよくなった話』と題した「note」の投稿が注目を集め、2024年4月に書籍化した『自分とか、ないから。 教養としての東洋哲学』がとても話題になっています。多くの人が漠然と東洋哲学にひきつけられていることがうかがえますが、そもそも東洋哲学とは何なのでしょうか?
しんめいPさん(以下、しんめいP):実は、“東洋哲学”は比較的新しい言葉。明治時代あたりから、アジアを盛り上げていこうという動きがある中で、井筒俊彦という東洋思想の研究者が仏教、禅、密教をはじめ、東洋思想の哲学的な側面に光を当てて、「東洋哲学」という言葉をあえて使ったことが一つのきっかけになったのではと考えています。
個人的には、そういった西洋哲学だけではなく、東洋思想にも光を当てるような動きを応援したいなという思いがあり、あえて東洋哲学という言葉を使わせてもらっています。
──西洋哲学とはどのような違いがあるのでしょうか?
西洋哲学の特徴を簡単に言うと、後輩が先輩のマウントを取りまくるんですよ(笑)。例えば、「プラトンが言ってることはおかしい。なぜなら、こうだから」みたいに論理を積み上げて、批判ができる。
いっぽう、東洋哲学は、先輩が言おうとしたことを後輩がめちゃくちゃ頑張って解釈する。先輩がすごいレベルの境地まで行ったから、そこに行く方法を後輩たちが編み出していくようなイメージです。
例えば「ブッタが悟りました」って言われても、悟ったことがない大多数の人にとっては疑いようがなくて、信じるしかない。ある意味、東洋哲学は信仰に支えられているといえるので、宗教とは切り離し難いんです。
──なるほど。その違いを生み出す要因はどんなところにあるのでしょうか?
ひとつ、大きな切り口で言うと、“言葉をどれだけ信用するか”という点ですね。
西洋哲学の中でも東洋哲学に近いものもあったりするので、一概にこうとは言い切れないのですが、言葉を信頼したうえで理論を積み上げていくのがざっくり西洋哲学かなと思っています。
例えば、「私という個人がいて、あなたという個人がいて、この二人は平等であり、自由です。それを担保するには法律が必要です」といった感じで、言葉によって社会を積み上げていく考え方を取るんです。
いっぽう、東洋哲学は「いや、“個人”っていう言葉にしちゃった時点で、そぎ落とされるものあるよね。個人ってただの言葉だし、個人が水を飲んだときに、その水はその人の一部になったけれども、その境界線はどこにあるの」といった調子で(笑)。言葉を信頼しすぎるとパンクしてしまうんですよ。
言葉を信用してないから、言葉を超えた世界をまずは体験するところから始めようみたいな話になり、ヨガありきのインド哲学、瞑想ありきのブッダみたいなところに行き着くんです。
ただ、そうはいっても、「東洋哲学を言葉では理解できないから信じるしかない」じゃあ救いがないですよね(笑)。だからブッダの語った言葉だったり、後輩たちが語った言葉によって、ある程度論理を積み上げていくことで、少なくとも気持ちがラクになれるところまではいけるんじゃないかっていうふうに思って、今回、本を書いたんです。
──だからこそ、しんめいPさんの著書は、東洋哲学を通し、多くの人が新たな視点を得るきっかけになり、話題を呼んでいるのかもしれませんね。
なぜ、人生の悩みに東洋哲学が効く?
──ご自身も、無職となり、離婚を経験し、引きこもっていたときに東洋哲学と出合い救われたそうですが、特に影響を受けた考え方はありますか?
しんめいP:“無”ってただの概念で、怖くないんだということですね。例えば、自分が何者でもなくなることって結構怖いことだと思うんですよ。
経済的に困窮するとかいう話以前に、会社や学校など所属がなくなると自分を定義する言葉がなくなる。それって得体の知れない怖さがありませんか? でも、実はその怖さと向き合ってみると割と何でもないっていうことに気づけたんです。
“無”の対義語は“有”。人は、「才能がない」「お金がない」「イケメンじゃない」とか、いろんな“有”と比較して、“無”の状態をネガティブなものとしてとらえがち。例えば、地方に行ったときに地元の方が「何もないのよ〜」とおっしゃったりしますが、山も川も林もある。ここでの“無”は都会という存在ありきで成り立つ概念なのです。
もっといえば、猫や犬からすれば、“有”も“無”もなくて、言葉で作られたバーチャルな世界におけるフィクションでしかない。虚無感みたいなものは、喜怒哀楽と一緒で、ひとつの感情でしかなくて、“無”ってラベルを貼っていなければ、他の感情と同じく過ぎ去っていくと感じています。
“無”であることを受け入れられないと、逆に何かがある状態に執着して、賞や資格が欲しくなったり、大学院に行って学歴が欲しくなったりする。でも、“無”と向き合うと、最初は苦しいんですけど、認めちゃうとめちゃくちゃラクになって、結果、いろんなことがうまくいったりするんですよね。
東洋哲学に学ぶ、執着を手放すコツ
──なるほど。そうはいっても、いきなり“有”に対する執着を手放すのは難しいかもしれません。東洋哲学の視点で、執着を手放すためのコツはあるのでしょうか?
しんめいP:あらゆるものごとや肩書き、体を自分のアイデンティティと同一視しないということですね。
例えば、自分の顔に対してセルフイメージを誰しも持っていると思いますが、諸行無常(=世のすべてのものは移り変わり、永遠に変わらないものはない)というように老いからは誰も逃れることはできません。若い頃のセルフイメージ=自分と思うと、どうにかそれを維持しようとさまざまな苦悩や苦労が生まれます。
他にも僕の場合、作家という肩書きを持ち、それを自分と同一視すると、「作家なのに最近本書いてないって思われそうだな」と自分がダメな人に思えてくる。でも、焦って何かを書いてもおそらくあまりうまくいかず、また苦しみが生まれます。
頑張って得てきたものであればあるほど、同一視しやすく、執着や苦悩の原因になりがちなので、いったん、自分から切り離し、あらゆる悩みは言葉で作られたバーチャルな世界でのフィクションなんだと少し俯瞰してみる。そんな東洋哲学的な視点で、受け入れ、手放していくといろんな悩みがラクになるかなと思います。
イラスト/Rei Kuriyagawa 構成・取材・文/長谷日向子