映画化された『先生の白い嘘』をはじめ、性やジェンダー、心の傷などの問題に向き合い続けてきた漫画家・鳥飼茜さん。最新作『バッドベイビーは泣かない』では、「妊娠」「中絶」「出産」といった人生の分岐点にあるテーマを、会話劇を通して描いています。創作への想いを伺いました。

笑いながら大事な話をしたい

——2024年に映画化された『先生の白い嘘』では、性の格差や不条理さを描いていらっしゃいました。最新作『バッドベイビーは泣かない』で、妊娠、中絶、そして出産をテーマにしたのはなぜでしょうか?
鳥飼さん:「スピリッツ」で連載していた『サターンリターン』が終わって、2年くらいまったく漫画を描かない期間があって。その間は、坂元裕二さんの作品をはじめ、好きなドラマを見返していて、「人がおしゃべりしているのを見て楽しむ経験も必要だよね」としみじみ感じたんですよね。重苦しいものからは少し距離を置いて、おしゃべりを中心とした会話劇を描いてみたいな、と。
その後、担当編集さんと打ち合わせしていく中で、会話劇の中でメッセージ性を打ち出すことに。もともと想定していた話の中に「妊娠」というキーワードを広げることにしました。
——妊娠だけでなく中絶もテーマに盛り込んだのは、2022年にアメリカで起きた中絶論争が話題になっていたことも関係しているのでしょうか?
鳥飼さん:この連載が決まってから、気になって調べ始めました。色々と調べていくうちに、今まで、付き合う、別れる、結婚する、子どもをつくる、つくらないといったことは描いてきたのに、中絶というテーマは取りこぼしてきていたことに気づきました。
恥ずかしいことなんですが、中絶の手段として安全とされている経口中絶薬を、日本では2024年にようやく認可されたことすら、私はきちんと把握していなかったんです。40代の私からすると、中絶って同世代ではあまり話題にならないこともあり、10代〜20代の若い子が悩むテーマなのかなと感じてしまっていたのかもしれません。
でも、知れば知るほど、「いまだに女性にとって妊娠、中絶は危機的状況で、私が10代だった頃に比べてあまり前進していないじゃん!置き去りにされてきた中絶という問題を主題にしなくては」という気持ちになりました。
なぜ妊娠は「窮地」も「祝福」も引き起こすのか

——鳥飼さんは、妊娠、出産、そして子育てを経験されています。ご自身の体験はこの物語にどれくらい生かされているのでしょうか?
鳥飼さん:もちろん、漫画に描いていることのすべてが実体験や知人から聞いた話ではありません。出産は自分がしたことのなかでよかったことのひとつだとも思っています。
でも、私自身「今妊娠したら困る」「妊娠したかも。どうしよう」といった状況になったことはあります。命が関わっていることなので、取り返しがつかないし、もう人生終わったかもというくらい深刻な局面に立たされたことも。
一方で、出産を選んだことをむちゃくちゃ祝福された経験もあります。自分の経験から、窮地と祝福が、妊娠という同じ事案によってなぜ引き起こされるのかっていうのは、昔から不思議に感じていて。この点については連載できちんと向き合いたいですね。
——鳥飼さんにとって、出産は「よかった」ことのひとつなんですね。
鳥飼さん:育児や母親業は向いていないとは自覚していますが、息子が楽しそうに部活やバンド練習をしている姿を見ると「ああ、よかったな」と感じます。
出産したことで当然、機会損失もたくさん経験していますし、子どもがいることで考え方が狭くなってしまうこともあると思います。でも、身近に若い世代がいることで、下の世代の将来のことへの関心がアップするので、生きることに対する意識の幅が広がるというプラスの面も感じていて。私にとってはマイナスもたくさんあるけど、トータルではよかったかな。

見なくてはいけないことに向き合うけれど、絶望はしない
——『バッドベイビーは泣かない』は、女性ばかりが対峙させられる危機的状況やそれについての苦悩を描きつつも、同時に読みやすさも意識されているように感じます。『サターンリターン』や『先生の白い嘘』とは、物語に漂う雰囲気を変えていらっしゃるのはなぜでしょうか?
鳥飼さん:私自身は明るいほうで、楽しいことが好きなんです。でも、取り上げているテーマと、自分自身の状況が重なっていったことがあって、そのときはどんどん実人生も物語も重い雰囲気になってしまって。それが『サターンリターン』の執筆中に苦しくなってきちゃって、2年の休養期間が必要になりました。
休んでいる間に、「私って本当はもっと人生を軽やかに楽しむタイプだったよね」って改めて気づくことができて、そこから少しずつ生きやすくなっていくのを感じるようになりました。「この感覚は手放したくない。幸せになることを目指したい」とも思うように。
暗い話を描いているとどうしても気持ちが引っ張られがちで。自分が楽しくない方向にわざわざ進んでいくのって、人生においてあんまりやっちゃいけないことなんじゃないかと思うんです。
私は40代になり、見なくてはいけないことには真剣に向き合いつつ、絶望しないと決心したので、その心境を漫画でも実現したい。なので、今作では社会的なテーマを扱いつつ、笑える会話劇を目指しています。
『バッドベイビーは泣かない』(講談社)

既刊3巻 759円〜792円
撮影/松本直也 取材・文/高田真莉絵 構成/渋谷香菜子