ライター海渡理恵さんによる、音楽を入り口に世界を見つめる連載「世界は鳴っている」が今月からスタート! 世界中のアーティストから発信される、個人の内面や社会のムードを反映したミュージックシーンの躍動をお届けします。現在進行形で世界各地から生まれている音楽に耳をすませて、自分や世の中の内側をのぞいてみませんか?

海渡理恵の世界は鳴っている シンガポール ユール(yeule) 

越境する東南アジアの若手アーティストが生み出す熱狂

かつてはニッチだったアジアの音楽も、K-POPを筆頭に、ショーン・ミヤシロが主宰する音楽レーベル・88rising所属のアーティストやRina Sawayama、Mitski、以前yoiに登場してくれたJapanese Breakfastといったアジアに出自を持つアーティストの活躍によってスポットライトが当たり、メインストリームの一角を担うようになった。

その勢いはとどまるところを知らず、文化的、歴史的、言語的な複雑さと多様さを持つアジアの音楽シーンは、年々熱を帯びている。なかでも今、最も活気に満ちているのが、若年層の人口比率が高く、経済成長を続けている東南アジアだ。越境力を自然と身につけたデジタル世代の若手アーティストたちは、同じアジア圏はもちろん、世界中のアーティストとセンスや共感性でつながり、自らの表現を追求している。そんなエネルギー渦巻く東南アジアの中でも、世界有数の国際都市、シンガポールから目が離せない。

中国系を中心に、マレー系、インド系など、多民族社会のシンガポール。そのため音楽も多様で、英語、中国語、マレー語など、さまざまな言語で歌われている。Apple Musicの“シンガポール・モダンミュージック”を聴けば、それを感じてもらえるだろう。

英語、中国語など、多言語のシンガポールミュージックをチェック。洋楽のような曲からアジアらしいサウンドの曲までそろう。

国際感覚に優れたシンガポール出身、ユール(yeule)のアルバム『softscars』でトラウマと対峙する

アジアのハブとして最先端が集結する都市で、あらゆる人種と共存するこの国のアーティストは、異文化を柔軟に取り入れた表現を得意とする者が多い。現在はロサンゼルスを拠点に活動している、ノンバイナリーのシンガー兼ビジュアル・アーティスト、ユール(yeule)はそれを象徴する存在だ。日本のサブカルチャーや、ロンドンのセントラル・セント・マーチンズ大学で培ったセンスを発揮した幽玄的で大胆なクリエイティブは、世界でカルト的人気を誇っている。ちなみに、アーティスト名は、ゲーム『ファイナルファンタジー』のキャラクターが由来だ。

yeule アーティスト写真

高い評価を得た前作『Glitch Princess』では日本を代表するラッパー、Tohjiが参加。楽曲に日本のアニメや駅のホームの音声を使用。さらに、最新作では、岩井俊二監督の日本映画『花とアリス』のサウンドトラック収録の『fish in the pool』をカバーしている。

枠に囚われない表現を追求するユールは、私たちには一見強くてクールに映る。しかし、個性的なビジュアルセンスやタトゥーの入ったボディ、セクシャリティのこと、さらには友人の死など、これまでさまざまな葛藤や苦悩に苛まれ、傷ついてきたという。アルバム『softscars』(※直訳すると、柔らかい傷跡)は、そんなユールが心身に負った傷に向き合った作品で、収録曲はトラウマや人生を変えるような出来事を書き残した「Scar and Truth(傷跡と真実)」という詩から言葉を抽出して作られた。

ユールがアルバムについて、「傷跡というメタファーを使ってそれぞれの曲を表現した。傷跡ひとつひとつは柔らかいまま。心理的トラウマであろうと肉体的な傷であろうと、時が傷跡を完全に治すことはない。痛みがなくなった後も、傷跡は残るしトラウマは消えない。私の人生にはいつも腐敗や歪みがあって、いつも悪いものや醜いものもあった。だから傷跡は、私が守られていることや、私自身を守るべきことを思い出させてくれる」と語っているとおり、本作は過去の経験で負った傷を見て見ぬふりをするのではなく、今の自分を構成する大切な要素のひとつとして受け入れることを後押ししてくれる。

yeule 「softscars」アルバムジャケット写真

yeule「softscars」¥2000/Beat Records / NINJA TUNE

幼少期に親や他人からかけれた言葉が、大人になっても忘れられず、自己否定を繰り返したり、恐怖心にさいなまれたりした経験はないだろうか? 夢幻的でエモーショナルなサウンドに癒やされる『sulky baby』は、インナーチャイルド(幼少期のトラウマによる負の感情)がテーマ。この曲でユールは、母親がよく口にした「拗ねてはいけない」という言葉に従って、“不機嫌でいたい(=無邪気でありたい)”という感情を抑制し続けた結果、傷だらけになった心に向き合う。

顔にたくさんの傷跡がついた大人のユールが、幼少期の自分に対峙する様子を視覚化したMVは、心の内側が抱える寂しさや怒りにアクセスするきっかけをくれる。

yeule - sulky baby (Official Music Video)

メディアのインタビューで、アジアにおける容姿やセクシャリティの固定観念について言及することがあるユール。10年前に比べて、美の価値観やセクシャリティの理解は進んでいるとはいえ、まだまだ改善すべきことは山積みだ。ステレオタイプによる傷を負わなくてすむ社会作りをしていきたい。ユールのパーソナルな物語が詰まったこのアルバムを聴くと、そんな思いも湧き上がってくる。

構成・取材・文/海渡理恵