哲学と聞くと、「生きるとは何か」「愛とは何か」…そんな難しいことを考えるイメージがありますが、もっと身近でささやかな「問い」について考えることも立派な哲学だと、哲学研究者の永井玲衣さんは言います。全国の学校や企業、お寺や美術館などさまざまな場所で「哲学対話」を続けている永井さんですが、そこで感じるのは、多くの人は「問う」のが苦手だということ。“余計なことは考えるべからず”という社会の空気のなかで、私たちはいつの間にか、「問い」を遠ざけるようになってしまったのかもしれません。

「問い、考えることは、自分を大切にすることでもある」と話す永井さん。忙しい毎日にも、少し目を向けてみれば「なぜ?」はたくさんあるはず。ほんの少し立ち止まって考えることが、今抱えているイライラやモヤモヤの解消につながるかもしれません。今、改めて「問う」ことの大切さについて、考えてみませんか? 哲学とセルフケアの関係について永井さんにお話を伺いました!

永井玲衣さん

イライラ、モヤモヤから始まる哲学

――哲学というと、すごく難しいことを考えるというイメージがあるのですが、永井さんは哲学をどのようなものだと説明しますか?



すごくシンプルに言えば、「立ち止まって考えること」ですよね。私は、哲学は学問というよりは、日常的な体験や営みであり、誰もが哲学者になることができると思っているんです。だって、世界って本当に変じゃないですか。“雨が降る”という事象にしても、空から水が降ってくるだなんて、ヤバいですよ(笑)。さらに、それに対して“天気予報”というものがあり、テレビでは、スーツ姿の人が当たり前のように「明日は傘が必要です」と話していて、私たちはその人の言うことを信じている...。

そうやって普段何気なく受け入れている一つ一つの事柄に立ち止まってみると、「なぜ、スーツというものが正装とされているんだっけ?」とか「そもそもテレビって何?」とか、日常の奇妙さや不思議さがどんどん現れてきます。世界が変だと気がつくと、勝手に哲学が始まってしまう。私はそんなふうに考えています。

かつて古代ギリシャの哲学者は「哲学は驚きに始まる」といいました。これにはすごく共感します。「世界はなんて奇妙なんだ」とか「なんて美しいんだ」と、びっくりしたり衝撃を受けたりしたときに、「問い」はこぼれてくる。でも私は、イライラしたりモヤモヤしたり、寂しかったり、笑っちゃったりするような、言葉にできないようなささやかな感情からだって、「問い」は生まれると思うんです。例えば、「どうして二日酔いになるとわかっていても飲みすぎてしまうんだろう」という「問い」。これはもう2000年以上も前から哲学者たちが考えてきた「意志の弱さ」についての問題です。

永井玲衣さん

他者がいるからより深く「問い」に潜れる。哲学対話の魅力

――永井さんの行う哲学対話とは、具体的にはどのようなものなのでしょうか?



私は、哲学対話を「まっとうにもがくことを許してくれる場」だと思っています。普段、「考えたって仕方ない」「くだらない」と言われてしまうようなことを、モヤモヤと考え合うのです。

哲学対話には長い歴史があり、世界中にいろんな実践者がいて、地域や現場によってその定義もさまざまです。私が行う哲学対話では、参加者から「問い」を出していただき、それについて参加者全員で考えを深めていきます。私はファシリテーターとして入りますが、参加者と一緒に探求します。

――「考える」という行為は、一人でするほうが深まるものというイメージがありました。みんなで考えることのメリットは何でしょうか?



実は私、もともとは人と話すのが苦手で、誰かと一緒に考えるなんて、絶対に無理だと思っていました(笑)。でも、ひとりっきりでモヤモヤと考えていても、いつか必ず行き止まりになるんです。そこで「いや〜、哲学って難しいね」と、「問い」を遠ざけてしまうと、それ以上考えは深まりません。でも、みんなで考えれば、誰かの放ったひと言によって、またグンと深く潜れることがあります。たとえ哲学対話のその場でやりとりができなくても、家でひとりになってから、ふっと誰かの言葉が蘇ってきて、考えが深まることもあります。結局、自分以外の存在があってこそ、初めて考えは深まっていくのだと気づきました。

永井玲衣さん

――哲学がとても身近なものに思えてきました。そもそも、永井さんはなぜ哲学に興味を持つようになったのでしょうか?



小さい頃から、「人は死ぬらしい」とか「宇宙って何なんだろう」とか、そういう漠然と不思議に思うことは、たくさんありました。ただ、それは自分の中のイライラやモヤモヤでしかなかったんですね。それがあるとき、何かの本を読んで哲学というものがあると知って。このモヤモヤやイライラを学問として“考えていい”んだと衝撃を受けました。でもその後、大学受験を前に「哲学科へ行こう」と決めたところ、担任の先生や塾のチューターからギョッとされ、「ちょっと話そう」と呼び出されました(笑)。



心の中にあるモヤモヤやイライラを口にするだけで、「変わってる」「大丈夫?」「病んでる?」なんて言われてしまう。哲学は、まるでよくないものだというようなまわりの反応にも違和感を抱きました。この10代の経験が、今、哲学対話を開くことの原体験になっていると思います。

誰もが心地よく過ごせるように。哲学対話の三つの約束

――永井さんの行う哲学対話には、何か必要なルールはありますか?

学校のホームルームとか会社の会議とか、大勢の人と話し合うのが苦手な人も多いですよね。私も人と集まって話すということが、なぜこんなにも難しいんだろうという問いを持ち続けています。そこで、自分にも誰かにも無理をさせない場をつくりたいと思ったときに、三つの約束をお伝えすることが多いです。

1.「よく聞く」

一つ目は「よく聞く」ということ。対話というと、たくさん話すことや、いいことを言うのが大事だと思われがちですが、いちばん大切にしたいのは聞くことです。というのも、私たちは普段、人の話を聞くときに「コイツ、どうせこういうこと言うんだろう」とか、「この人の話はつまらない」などと、先入観や思い込みを持って話を聞きがちで、その人の話すことをそのままに聞く、ということがなかなかできていないんですね。参加された方にも「こんなにもよく聞くってことが難しかったなんて」というお声をいただきます。

2.「えらい人の言葉は使わない」

二つ目の約束は、つまり「自分の言葉で話す」ということ。「哲学」は、知識を披露し合う場でも、何かかっこいいことを言う場でもありません。借りものの言葉ではなく、めちゃくちゃでもいいから自分の言葉で話してほしいんです。

私はいつも、決して言い換えの利かないその人本人から出た言葉を聞いたとき、心が震えます。例えば、それまでスラスラ話をしていた人が、急に停止して、「え、それってどういうことだろう?」と、自分の中に「問い」を見つけてしまった瞬間。支離滅裂でも話すことを止められなくなってしまい、「すいません、急によくわからない話をしてしまいました…」と我に返り、恥ずかしそうにしている姿。そんな場面を見られると、「今日はよい対話ができた」とうれしくなります。

3.「結局“人それぞれ”にしない」

三つ目は、「結局“人それぞれ”にしない」。「人それぞれ」って、すごく優しくて大事な言葉なのですが、私には「どうでもいいよね」というふうにも響くんです。そもそも「なんで違うんだろう?」ということを問うのが哲学。人それぞれというのは当たり前で、それをゴールにせずにスタート地点にしましょう、と伝えています。

永井玲衣さん

“私が”考えていい。こんな体験初めてと泣いてしまう人も

――学校や企業などで哲学対話を行われていますが、参加者が子どもの場合と大人の場合で、何か違いはありますか?

大人であれ子どもであれ、はじめは「問う」ことに戸惑うんですね。なかには怖がる人もいます。なので、哲学対話を始める前には、「どんなに些細だと思えることでも、それは哲学の始まりなんですよ」と伝え、安心してもらうようにしています。すると、子どもたちからは、一瞬で黒板が埋まるほどたくさんの「問い」が出てくる。その内容も伸びやかで自由で、さすがだなと思います。でも、不思議なことに、いざ対話を始めると、なぜかみんな急にいい子モードになって、四角四面なことしか言わなくなってしまうんです。だから、哲学対話を子どもとするときは、彼らを「いかに壊すか」ということに注力します。

一方、大人は「いかに許すか」が、ポイント。なかなか「問い」が出てこないときには、「普段どんなことを考えていますか?」と尋ねるのですが、みなさん驚くんです。「自分が何を考えているかなんてこと、考えたこともなかった」と。それから、とくに女性に多いのが、「私なんかが考えてもいいんですか?」という人。それでも、哲学対話という場所では、自分の中のモヤモヤを口に出して、それをまっとうに考えることができる。しかもそこにいるみんなが一緒になって。こんな経験はしたことがないと言って、泣いてしまう人も多いんですよ。

日々のイライラ、モヤモヤを「問い」に変えて。哲学研究者・永井玲衣さんに聞く、哲学対話とケアの関係_5

苦しみやモヤモヤを「問い」に変えると、世界の見え方が変わる

――モヤモヤを口に出すうちに、哲学対話がお悩み相談のようになってしまうことはないのでしょうか?



例えば、「毎日がつらくてもう死にたいんです」と言う人がいれば、そこにいる多くの人は「大丈夫?」と心配します。なかには「自分には関係ないことだ」と思う人もいるかもしれません。でも、哲学対話はお悩み相談じゃなく、探求です。だから、その悩みを「生まれてくるのは悪いことなのだろうか」という「問い」に変えてみる。すると、一人だけの問題だったことが、全員にかかわる問題になるんです。哲学対話を「世界と関係を結び直す」と表現する方がいて、とても共感しました。この世界も他人も、自分には関係ないと思っていたのに、「みんなで一緒に考えよう」となったとき、改めてそこにある関係に気づくことができるんです。



さらに、悩みを「問い」に変えることで、今、頭をいっぱいにしているつらい気持ちから一歩引いて、別のやり方で悩んでみることができます。悩みと距離ができると、案外ちっぽけなことなのかもしれないと、思えることもありますよね。私は大抵毎日落ち込んでいるんですけど(笑)。でも、どんなことでもすぐに「問い」にしてしまうので、友人にも「落ち込んでいると思ったら、哲学をしている」と、笑われます。

永井玲衣さん

哲学は自分を尊重すること。誰もができるセルフケア

――永井さんは、哲学とケアにはどんな関係があると思いますか?



自分は普段何を考えているのか、そこに意識を向けることは、自分を大切にすることでもあると思っています。癒やしというよりも、「自分を尊重する」ということに近いのかもしれないですね。「自分の声を聞いていいんだ」「自分が考えてもいいんだ」と許すことは、主体性を取り戻すことだとも思います。それは、自分の手が温かくなっていくような、そんな感覚にも似ています。

セルフケアのためにアロマキャンドルを灯して、泡風呂に浸かって…というのもいいですが、哲学ならアイテムは何もいりません。誰でも好きなときに、自由にできるのもいいところですよね。

――永井さんのお話を聞いて、改めて「自分の考えていること」に目を向けてみたくなりました。

私は哲学対話を続けながら、ずっと「哲学は誰のものか」と問い続けてきた気がします。哲学対話で、怖がったり、戸惑ったりする参加者の反応を見るたびに、私たちは、社会生活のなかでいつの間にか「哲学させられなくなっている」のだと痛感します。この社会の構造を肌で感じてから、誰もが哲学できる場を作り続けていきたいという思いはより強くなったかもしれません。「哲学はみんなのもの」であるはずですから。

永井玲衣

永井玲衣

哲学研究者

永井玲衣

1991年、東京都生まれ。哲学研究と並行して、学校や企業、寺社、自治体などで哲学対話を幅広く行なっている。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)。好きなことは、詩と漫才と念入りな散歩。

取材・文/秦レンナ 撮影/長田果純