医療・科学・テクノロジーなどの現場で、性別の違いを考慮して研究や開発をデザインすることを指す「ジェンダード・イノベーション」という概念(前編参照)。社会に根付くジェンダーや人種へのバイアスを正し、より多くの人に科学や医療の恩恵を届けるにはどうしたらいいのか? 『ジェンダード・イノベーションの可能性』(明石書店)の共著者であり、分子細胞生物学が専門の佐々木成江さん、科学史が専門の鶴田想人さんにお話を伺いました。

東北大学 DEI推進センター 副センター長/教授
東北大学 DEI推進センター 副センター長/教授。横浜国立大学 ダイバーシティ戦略推進本部 客員教授/学長特任補佐(ジェンダード・イノベーション担当)。分子細胞生物学を専門に研究。お茶の水女子大学ジェンダード・イノベーション研究所の設立に尽力。2024年3月まで、同研究所の特任教授を務める。著書に『ジェンダード・イノベーションの可能性』(共著、明石書店、2024年)、『高校生と考える 未来への想像力』(共著、左右社、2025年)などがある。

東北大学 DEI推進センター 助手
東北大学 DEI推進センター 助手。お茶の水女子大学 ジェンダード・イノベーション研究所 客員研究員。大阪大学 社会技術共創研究センター 招へい教員。著訳書に、シービンガー『奴隷たちの秘密の薬』(共訳、工作舎、2024年)、『ジェンダード・イノベーションの可能性』(共編、明石書店、2024年)、『無知学への招待』(共編、明石書店、2025年)などがある。
AIが学習しているデータには、社会に根付くジェンダーバイアスが含まれている

——前編では医学・医療分野のお話を伺いましたが、他の分野において性差分析の重要性が認識された例はありますか?
佐々木さん:最初に性差分析が進んだのは医学・生物分野でしたが、次に進んでいるのがAIの分野です。AIにさまざまなデータを機械学習させるときに、そのデータ自体にジェンダーバイアスが含まれていると、それを増幅させたり助長させたりするという問題があります。
例えば、iPhoneのSiriやGoogleアシスタントといったAIを活用した音声アシスタントは、発売当初には女性の声であることが多かったんですが、2019年のUNESCOの報告書で「女性は世話好きで、従属的な補助的存在である」というジェンダーバイアスを強めてしまうと指摘されました。そのため、現在では男性の声も選択できる機種が増え、声に性別のイメージがつかない、ジェンダーレスボイスの開発もされています。
また、翻訳ソフトのDeepLで「リケジョ」と入力してみてください。「woman who allegedly pursues a career at the expense of love, feminine interests, etc.(恋愛や女性的な興味などを犠牲にしてキャリアを追求するとされる女性)」と英訳されます。
大量のデータからパターンや特徴を自動的に学習するディープラーニングが、世間のジェンダーバイアスをそのまま反映してしまったんです。
かといって、このバイアスを弱めるためにアルゴリズムに人為的な補正を加えると、今度は「アメリカ建国の父」を黒人やアジア人として描くなど、歴史的に間違った画像を生成してしまいました。人為的にバイアスを埋めるのは、かなり難しいようです。
最初の衝突実験用ダミー人形に、女性用はなかった
——なぜこうした性差やジェンダーバイアスはこれまで見過ごされてきたのでしょうか?
鶴田さん:やはり研究環境に男性が圧倒的に多かった、ということに尽きると思います。「なぜこれまで見過ごされてきたのか」という問いを裏返すと、「なぜ最近になって気づかれたのか」ということにもなりますよね。
それはやはり欧米でのフェミニズムの隆盛によって、女性が声を上げたことが大きかったと思います。女性の研究者が増えて、まず「なんて男性的な世界なんだ」という気づきから、どんどん新たな発見が生まれてきたんじゃないでしょうか。
私は、これまでの男性研究者たちも決して悪意から女性を排除したわけではないと思っています。例えば自動車の衝突実験に使われるダミー人形は、もともと戦闘機用に開発されたので、女性が視野になかったんですね。しかしそれが自動車の安全テストに使われるようになっても、「男性のモデルをそのまま小さくすれば女性になる」といった安易な発想から、ごく最近まで女性を正確にかたどったダミー人形は作られませんでした。
佐々木さん:両方の性別のデータを取ろうとすると、お金も時間もかかります。そこは、実際に研究や開発を進める際の障壁です。ただ、女性のデータを入れることで、かかるコストよりも将来的には大きな経済効果が得られるという報告もあります。
鶴田さん:健康面や人命の損失も大きなものです。車の安全性についても、女性のダミー人形が極端に小さかったり、ドライバー席に乗せてテストしていないことなどから、乗員・ドライバー共に女性の方が事故で重症を負うリスクが高くなってしまいました。また、従来の3点式シートベルトは妊婦の体に適しておらず、妊婦の流産率や胎児の外傷による死亡率が高まってしまっているんです。

鶴田さん:あとは、ロボット技術でもバイアスを感じるものは多いですね。駅の構内にいる案内ロボットは声や見た目が女性っぽく、警備用ロボットは声や見た目が男性っぽいものが多い。先ほどのAIを活用した音声アシスタントの例と同じですね。これも、案内や警備といった目的を効率よく達成しようとして、未だ社会の前提にあるジェンダーロールを再生産してしまっている例だといえると思います。
こうした事例が、ジェンダー論やフェミニズムの研究者、あるいは市民の声によってだんだんと明らかになり、問題として可視化されてきたのだと思います。
——科学が客観性や価値中立性を持たず、むしろジェンダーバイアスを強化してしまう…ということもあるのでしょうか?
鶴田さん:科学が社会に与える影響を見るには、少し歴史を振り返ってみる必要があります。シービンガー先生(「ジェンダード・イノベーション」の提唱者)が発見した有名な例として、18世紀の男女の骨格図で女性の頭が実際よりもだいぶ小さく描かれていた、という話があります。そのことは「女性は脳が小さいから学問に向いていない」というような当時のジェンダーバイアスを強化し、女性の排除を正当化してきたとシービンガー先生は分析しています。
また、同じ骨格図では男性の骨格の横には「高貴な動物」であるウマを、女性の骨格の横には小さい頭と大きな骨盤を持つダチョウが置かれています。それぞれの性の果たすべきとされた役割が科学的なテキストの中に書き込まれたことで、それがあたかも自然なもののようにみなされるようになっていったのです。
ごく最近まで、男性ばかりの医学が女性の身体に着目するのは、もっぱら生殖に関する事柄を扱うときだったと言われています。すると、女性がどうしたら子どもをより多く産めるかという知識はたまっていく一方で、女性自身の健康やセクシャルウェルネスについては、知られないままになりました。
差別する意図がなくても生まれる「系統的な無知」

——科学とバイアスの悪循環によって、「無知」が生み出されてしまうんですね。
鶴田さん:はい。それをシービンガー先生は「系統的な無知」と呼んでいます。
——「系統的な無知」は、私たちの社会でどのように生まれているのでしょうか?
鶴田さん:研究の優先順位が低くみなされたことで、研究されずに放置されてきたものがたくさんあるのです。そもそもリソースが限られる中で、科学は自然界のすべてを研究することはできません。
そうしたときに、当然研究されやすいテーマとされにくいテーマが出てきてしまい、後者については「無知」が作られることになります。その際、社会の構造やバイアスが研究の優先順位に少なからず影響してしまうのです。
見過ごされてきた要素を考慮して生まれたイノベーションもある
——「系統的な無知」により見過ごされてきたのは、女性だけではないと思います。性差に限らず、見過ごされてきたマイノリティの要素を考慮することで、どのようなイノベーションが生まれているのでしょうか?
佐々木さん:例えば、ある外科手術デバイスの開発において、性差分析と交差性分析(性差だけでなく、年齢、障害、人種、地域性などの要素を考慮して分析すること)が結びついた例があります。
腸の悪くなった部分を切断して、切断した腸をホッチキスのようなもので再度つなげるデバイスです。これは海外製で、日本人のように手が小さいアジア人は強く握り込む必要がありました。特に女性は手が小さくて握力も弱いので、半分ぐらいの日本人の女性医師が片手の力だけでは操作できないという論文が報告されました。
それを受けて、医療機器メーカーがアジア人のデータを取っていなかったことに気づき、アジア人のデータも取りました。その結果、デバイスを手の大きさに左右されない電動スイッチに変えたんですね。そうしたら、女性だけでなく男性にとっても使いやすくなり、さらには吻合部分の漏れが61%も削減されて、患者さんにとってもすごくいい機械になりました。
このように、いろんな人に波及していく技術が生まれるきっかけになるのが、ジェンダード・イノベーションの魅力的なところだと思います。
イラスト/Jun Ogasawara グラフ画像デザイン/前原悠花 構成・取材・文/福田フクスケ 企画/木村美紀(yoi)