医療・科学・テクノロジーなどの現場で、性別の違いを考慮して研究や開発をデザインすることを指す「ジェンダード・イノベーション」という概念。これまで見過ごされてきた、性別や人種による差が不平等を生み出してきた「構造的不正義」とは、どのようなものなのでしょうか? 『ジェンダード・イノベーションの可能性』(明石書店)の共著者であり、分子細胞生物学が専門の佐々木成江さん、科学史が専門の鶴田想人さんにお話を伺いました。

佐々木成江

東北大学 DEI推進センター 副センター長/教授

佐々木成江

東北大学 DEI推進センター 副センター長/教授。横浜国立大学 ダイバーシティ戦略推進本部 客員教授/学長特任補佐(ジェンダード・イノベーション担当)。分子細胞生物学を専門に研究。お茶の水女子大学ジェンダード・イノベーション研究所の設立に尽力。2024年3月まで、同研究所の特任教授を務める。著書に『ジェンダード・イノベーションの可能性』(共著、明石書店、2024年)、『高校生と考える 未来への想像力』(共著、左右社、2025年)などがある。

鶴田想人

東北大学 DEI推進センター 助手

鶴田想人

東北大学 DEI推進センター 助手。お茶の水女子大学 ジェンダード・イノベーション研究所 客員研究員。大阪大学 社会技術共創研究センター 招へい教員。著訳書に、シービンガー『奴隷たちの秘密の薬』(共訳、工作舎、2024年)、『ジェンダード・イノベーションの可能性』(共編、明石書店、2024年)、『無知学への招待』(共編、明石書店、2025年)などがある。

個人の責任というより、構造的に生まれる不公平がある

ジェンダード・イノベーション 公平 平等

——中編「系統的な無知」についてお話ししていただきましたが、悪意があるわけではないのに、どうしてそのようなことが社会で起こってしまうのでしょうか?

鶴田さん:「顧みられない熱帯病」という言葉があります。アフリカなどでたくさんの人がかかって亡くなっている熱帯病の薬は、なかなか開発されない。貧困で薬を買うお金がない人のために薬を開発するより、命には関わらないけれど、見た目がよくなるとか痩せるというような薬を、富裕層や先進国向けに開発したほうが儲かるからです。

製薬会社が差別的な意図を持っているわけではないと思います。しかしここには、企業が生存競争のためにより儲かるほうを選ばざるを得ないという社会の構造があります。このように、ひとつひとつは致し方ない行動かもしれないけれども、それらが重なって作られた無知が、特定の人々に不利益や不公平をもたらしている状況を、「構造的不正義」と呼んでいます。

「構造的不正義」は、もともとアメリカの政治哲学者アイリス・ヤングの提唱した概念です。権力者による弾圧とか、意図的な差別とか、誰かを明確に排除しようとしているわけではないのに、社会の制度や文化などの要因から構造的に生じてしまう不公平な苦しみのことです。

最近は「Equality(平等)」に代わって「Equity(公平)」という言葉が使われるようになってきています。「平等」とは例えば皆に同じような支援をすることですが、「公平」は各自のニーズに合わせた支援をするべきだという考え方です。反対に「不平等」とは格差のことですが、「不公平」というのは、本来あるべきものがそこにないということを意味します。

「平等」と「公平」の違いについてはよく、身長の違う人たちが塀越しに野球を観戦する際の踏み台の高さで解説したイラストがありますよね。“知識”の不公平から人命に関わるような不公平が生じてしまう、そういった事態を「構造的不正義」というのです。 

日本の「構造的不正義」は、何が課題?

——日本における「構造的不正義」は、どのようなところにあると思いますか? 

鶴田さん:例えば数年前、  “女性の活躍応援団”を謳う団体のポスターに映っていたのが全員男性だった、という件がSNSで炎上しました。また、まちづくりに関するオンラインスクールの講師が全員男性だったことも、SNSで物議を醸しました。

政治家、経営者、研究者‪……‬まだまだ男性ばかりの世界で、男性だけが決定権を握っていたり、男性だけが何かを教える側の立場だったりする。そうした光景を見慣れすぎると麻痺してしまいがちですが、それは本来はとても不公平なことではないでしょうか。‬‬

日本での緊急避妊薬のOTC化(医師の処方箋なしに薬局で買えるようにすること)の遅れも、そうした男性優位の構造に根があるように思います。OCT化に反対する人々は、女性に性や避妊薬についての知識が十分にないことを理由のひとつとして挙げています。

日本の中等教育では、学習指導要領のいわゆる「はどめ規定」もあり、性教育が不十分にしかなされていないのは確かです。しかし、そこを変えるのではなく、むしろそれを理由に、多くの国で認められている権利を認めようとしない。その結果、例えば望まない妊娠をした女性が大変な思いをしたとしても、それは「自己責任」だと言われます。しかしこれこそ、「構造的不正義」でなくてなんでしょうか。

そもそも、性の知識が不足しているのは男性も同じはずなのに、女性の側の問題であるかのように言われているのもフェアではありません。そういった生殖やセクシュアリティに関する場面で、まだまだすごく男性が権力を握っている状況があるのは、歴史的にも社会的にも、根深い問題だと思っています。

緊急避妊薬や、あるいは選択的夫婦別姓もそうですが、国民や医療者の意見を聞くと賛成の方が多いというデータもある一方で 緊急避妊薬の例夫婦別姓の例)、一部の政治家たちは「国民の理解が必要だ」といつまで経っても議論を進めてくれません。

日本の場合、ジェンダード・イノベーションによって知識の不公平が是正され、社会の平等化が進んだとしても、保守的な政治家の圧力だったり抵抗だったりでその恩恵が十分に行きわたらないかもしれないところにも課題がありそうです。 

悪意ではなくシステムの問題として考えることで、解決に近づく

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——日本の状況は、なかなか根深いですね。それを変えていくには、どうしたらいいのでしょうか?

鶴田さん
:「構造的不正義」をなぜ“構造的”と呼ぶのか、というところに解決の糸口があるように思います。不正義があったときに、例えば「男性が女性を差別している」「男性が悪い」といった男性側の問題にしてしまうと、「いや、自分は差別していない」とか「差別しているつもりはないのに」と言われたり、反感を買ったりして、なかなか問題が解決しません。

そうではなくて、“誰もが善意であったとしても”起きてしまう問題であると強調することで、「誰もがその問題にコミットして、改善する責任を負っている」と考えてもらいたいんです。個人の罪ではなくシステムの問題と捉えることで、問題の解決のために協力しやすくなるのではないでしょうか。 

佐々木さん:構造的に有利にいる人が声を上げることが重要ですよね。有利な立場の人は、制度をつくる側にいる場合が多いので、実効性のある変革を促しやすい。一方、不利な立場の人は、声を上げることで個人的な犠牲や反発リスクを受けやすく、大きな労力も伴います。

また、社会の中での立場は一面的ではありません。私たちは、性別、年齢、人種、経済的地位など複数の属性を同時に持っています。例えば、性別で有利であったとしても、年齢で不利になることもあり得ます。このように、社会的な立場は状況によって変わりうるのです。

構造的不正義による不利は、誰にでも生じうるものです。だからこそ、違いを尊重し、相手の視点に立って心を寄せ、共感することが大切だと思います。 

——「構造的不正義」に対して、私たちはどのようにアプローチしていけばいいのでしょう。私たちが果たすべき「責任」とは何でしょうか?

鶴田さん責任にもいろいろありますが、ヤングが呼びかけたのは、「政治的行動を起こす責任」です。政治的行動といっても、法律や制度を作ったり変えたりといった大きなことだけでなく、声を上げるとか、声を上げた人に連帯を示すとかでいいんです。

もともと罪の概念と責任の概念がごっちゃになっていたところをヤングは切り分けて、罪は個人に帰せられるものだけど、責任は共同で負うべきものだと捉え直しました。

社会の誰もが不正義を生み出す構造に加担している以上は、誰しもに責任があります。ただ、できることは人それぞれで、マジョリティや力のある人であればあるほど、大きな力を持って制度や構造を変えていくことができるし、その責任を持つわけです。

科学だってある種の力ですし、科学的な事実を示すことで、社会や現実を変えていくことができます。しかし科学者もバイアスの生産や再生産に加担してきた歴史を忘れてはなりません。より多くの人に恩恵を届けられるように、科学自体も変わる必要があるのです。ジェンダード・イノベーションは、科学がより公平で責任あるものとなるための、ひとつの指針を示してくれているのではないでしょうか。 

イラスト/Jun Ogasawara 構成・取材・文/福田フクスケ 企画/木村美紀(yoi)