今、「ジェンダード・イノベーション」という概念が注目を集めています。これは、医療・科学・テクノロジーなどの現場で、性別の違いを考慮して研究や開発をデザインすること。この言葉を初めて聞く人も多いかもしれませんが、実は、私たちの暮らしや健康に密接に関わっているものなのです。 この取り組みについて、2024年に共著書を上梓した、分子細胞生物学が専門の佐々木成江さん、科学史が専門の鶴田想人さんにお話を伺いました。

ジェンダード・イノベーションとは?
薬の効果や副作用が男女で違うことがあるように、身体には生物学的な性(セックス)の違いがあります。また、文化・社会的に構築された性(ジェンダー)によっても、置かれている環境に違いが生まれます。セックスとジェンダーの両方を考慮し、研究の内容や技術開発のあり方を見直していくものが、ジェンダードイノベーションの考え方です。

佐々木成江

東北大学 DEI推進センター 副センター長/教授

佐々木成江

東北大学 DEI推進センター 副センター長/教授。横浜国立大学 ダイバーシティ戦略推進本部 客員教授/学長特任補佐(ジェンダード・イノベーション担当)。分子細胞生物学を専門に研究。お茶の水女子大学ジェンダード・イノベーション研究所の設立に尽力。2024年3月まで、同研究所の特任教授を務める。著書に『ジェンダード・イノベーションの可能性』(共著、明石書店、2024年)、『高校生と考える 未来への想像力』(共著、左右社、2025年)などがある。

鶴田想人

東北大学 DEI推進センター 助手

鶴田想人

東北大学 DEI推進センター 助手。お茶の水女子大学 ジェンダード・イノベーション研究所 客員研究員。大阪大学 社会技術共創研究センター 招へい教員。著訳書に、シービンガー『奴隷たちの秘密の薬』(共訳、工作舎、2024年)、『ジェンダード・イノベーションの可能性』(共編、明石書店、2024年)、『無知学への招待』(共編、明石書店、2025年)などがある。

「メスは性周期の影響でデータがブレるからオスを使いましょう」という慣例

ジェンダード・イノベーション 性差 研究

——「ジェンダード・イノベーション」という概念はどのような考えのもと、なぜ生まれたのでしょうか?

佐々木さん女性の健康に関するデータは、非常に不足しています。その要因のひとつとして、女性には、妊娠・出産の可能性があるため、臨床試験への参加を控える状況があります。

アメリカでは、サリドマイド薬害事件(1960年代に鎮静・催眠薬として販売されたサリドマイドが、妊娠初期の服用によって世界中で多くの胎児に先天異常を引き起こした)を機に、母胎保護のために薬の臨床試験に女性を参加させない時期もありました。また、前臨床試験で使う動物に関しても、「メスは性周期の影響でデータがブレるからオスを使いましょう」というのが慣例で常識になっていました。

そのような中、1980年代のアメリカでは、男性中心の研究から得られた知見に基づき、心疾患を予防するためにコレステロールの摂取制限政策がとられました。しかし、男性は死亡率が劇的に下がったのに対し、女性にはほとんど効果が見られませんでした。原因を調べてみると、コレステロールの低下が心疾患の抑制に効果的なのは「男性に対してだけ」だということがしだいにわかってきました。 

そこで、男性だけのデータで作り上げた医学・医療を見直し、きちんと性の違いを見ようという風潮が生まれ、性差医学・性差医療という考え方が広まりました。 

鶴田さんこの性差医学・性差医療といった考え方に、人文的なアプローチを結びつけて「ジェンダード・イノベーション」という概念として提唱したのが、スタンフォード大学のロンダ・シービンガー先生です。

シービンガー先生には科学史から消された女性たちという著書があるように、もともと科学史の分野で、「女性がいかに科学の現場から排除されてきたか」を研究してきた方です。

例えば大学は、700〜800年間、ずっと女性が入れない機関でした。そのせいで、「ヒト=男性の身体」として実験や研究を行い、「女性も生殖器以外はだいたい同じだろう」という思い込みのまま医学が進んできたという長い歴史があります。

研究者に女性が少ないと、女性特有の健康問題に対する気づきも遅れますし、気づいたとしても研究して解明しようという熱意がどうしても不足します。例えばつい最近(2023年)、女性研究者の率いるチームによって、妊娠中のつわりの原因に特定のホルモンが関わっていることがわかってきました。男性にとって「自分ごととしてわからない」分野だから研究されてこなかった、という側面はあったのではないかと思います。 

科学研究を性差の視点から見つめ直す

鶴田さん:女性の研究者が少ない上に、研究対象としても女性はないがしろにされ、長年、科学研究においては男女の非対称性がありました。

すると科学が生みだす知識そのものにも、バイアスが存在するのではないか。そこで、科学研究のあり方そのものを性差の視点から見つめ直すことが必要だと、シービンガー先生が提唱したのがジェンダード・イノベーションなんです。 

佐々木さん:かつて私自身、大学時代から「動物実験にはメスではなくオスを使うように」と習ってきて、長年そこに全く疑問をもっていませんでした。

マラリアの研究をしていたのですが、マラリア原虫の餌となるヒトの血液も、女性だと生理などがあって血液の成分が変わりやすいから、A型の男性の血液を使いましょうと説明されて、「あ、そうなんだ」って受け入れていました。

生命の真理を追究するために研究者になったのに、自分も受け入れてきた慣習のせいで女性の健康データが少なくなっているという指摘は、大きなショックでした。

また、私は女性研究者が活躍するための環境整備にも長年携わって、ジェンダーバイアスには意識が高い方だと思っていました。よく考えれば、女性のデータを取らなければ、研究内容が偏ることはわかるはずなのに、研究の中にあるジェンダーバイアスに気づくことができなかった。「それが当たり前だ」という刷り込みは、想像以上に強かったのです。

そして、なによりも今まで見過ごされてきた性差というものを考慮に入れることで新しい発見を生み出すチャンスが広がる。そのようなジェンダード・イノベーションに、とても大きな魅力を感じています。 

「女性の研究者が少ない」ことと、「女性の研究データが少ない」ことは、密接ながら別問題

鶴田さん:ただ、研究者として女性が排除されてきた問題と、研究対象として女性のデータが少なかったという問題は、密接であるものの、いったん切り分ける必要があると思います。

ジェンダード・イノベーションを、「女性特有の問題は女性にしか気づけない」とか、「女性ならではの視点を入れると研究がよくなる」というふうに解釈してしまうと、それはそれで偏見や差別を助長してしまいかねません。 


もちろん現状では、女性の研究者が増えた方が、女性特有の問題が研究されやすい傾向はあると思いますが、性差分析は男女問わずできるものだし、男性側が不利益を被っているパターンもあります。

どんな人も性差分析を用いて研究をよりよくすることができるのがジェンダード・イノベーションなので、「女性ならではの視点を研究に生かして……」みたいな言い方はしないように僕は気をつけています。

佐々木さん:そこは本当に注意しないといけないところで、「女性特有の問題は女性の研究者がやりなさい」みたいになると、非常に問題です。

最近のアメリカの論文なのですが、1976年から2010年までの医療特許を調べてみると、1990年頃までは「男性が50%以上」のチームでは男性の健康に焦点を当てた特許割合が高く、「女性が50%以上」のチームでは女性の健康に焦点を当てた特許割合が高いという傾向がみられました。

また、女性の研究者の数がとても少ないために、全体の特許の数としては、女性の健康に焦点を当てたものが非常に少ない状況でした。 

しかし、1990年代中頃から政策として「ちゃんと女性の健康も考えなさい」とテコ入れすることで、男性が多いチームでも女性に焦点を当てた特許割合が急激に増えて、差がほとんど無くなりました。

やはり、放っておくとその差に気がつかなかったり、現状のままでいいと思ってしまうんですよね。 

性差が見過ごされてきた例:心筋梗塞の症状の性差

ジェンダード・イノベーション 心臓発作 男女差

——医学や医療の分野で性差が見過ごされてきた例には、どのようなものがあるのでしょうか?

佐々木さん:性差分析の必要性に最初に気づいたのは、医学・医療の領域でした。中でも一番進んでいるのは心疾患の分野ですね。日本のデータなのですが、急性心筋梗塞患者の入院から30日以内の死亡率は、男性より女性の方が2倍も高いという報告があります。これはなぜかというと、心臓発作の症状が男性と女性で違うことが原因です。

心臓発作といえば「うっ」と胸を押さえて苦しむ姿がイメージされやすいのですが、これは男性によくみられるもので、実は女性は、それ以外にめまいや消化不良、疲労という形で症状があらわれることがあります。そういう性差による症状の違いを知らない医師も多く、診断が遅れて、治療の開始が遅くなることが、院内死亡率の差に大きくつながる部分でもあるそうです。

逆に、男性の場合は骨粗しょう症が見過ごされがちという問題があります。骨密度自体は男性の方が10〜12%くらい高く、「骨粗しょう症は女性の病気」というイメージが強い。しかし実際は、男性は女性と比べて10年ほど発症が遅く、骨粗しょう症で骨折する人の30%が男性です。

見過ごせないのが、股関節骨折関連による一年後の死亡率が男性は女性の2倍高い‪という点。現在、国が健康増進事業として実施している定期検診だと、骨粗しょう症検診は女性のみが対象になっていますが、男性も70歳以上の方は含めた方がいいと思います。

性差だけでない「交差性分析」がより多くの人を救う

佐々木さん:科学技術の発展は、社会や人々に大きなインパクトを与えるにもかかわらず、特定の属性でしかデータがとられていないと、科学技術の恩恵をすべての人が平等に享受できなくなってしまう。これは、実は「性差」だけの問題ではありません。

ジェンダード・イノベーションの分野で最近強く言われているのは、「性差分析」だけでなく、見過ごされてきたさまざまな属性との「交差性分析」が必要だということ。セクシュアリティ、年齢、障がい、人種、民族、地域性、経済状況などの差別要因が重なると差別が増幅されてしまうという問題にも、注目が集まっています。

例えば同じ病気でも、人種によって発症の仕方や症状の出やすさに違いがある。その上で性別という要素が加わると、さらに細かくデータを取る必要が出てきます。

今はAIによってビッグデータの解析が可能になり、Apple Watchなど身近なデバイスで生体情報も取得できるようになってきました。データの収集と解析がうまく進んでいけば、この先、もっと多様な人々に科学技術の恩恵を渡せるようになると期待が持てますね。 

イラスト/Jun Ogasawara グラフ画像デザイン/前原悠花 構成・取材・文/福田フクスケ 企画/木村美紀(yoi)